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なすことの多くがやりかけであるような気がしている。とりわけ手もとからうまれるものが、みだれるような書きかけだ。ゆえんはなにか。おそらく「最近」というものが、わたしの側面にたいして、つれなく人格化しているのだろう。離れたり、ちかづいたり。身のおきかた次第だが、横からのみ、からだをみられ終わった一日も、最近にあったはずだ。
他人をかんがえてみればいい。やわらかくひかるバスのなかに、ちぶさをわずかにとがらせた横のすがたがあって、ながい髪にかくれているから、横顔いがいもみたいのに、そのむすめがいつの間にか吊革をはなして、きえてしまった、そんな時空の無念を。
あれが書きかけだ。だが、だれの筆によって。
むろん最近というものがどんな幅や厚みをもつのかは一考にあたいする。きのう藤女子に出講してゆくとき、路傍の花の多くが花房のみのこして、しかも枯れ色の実になろうとふくらみだしていた。あれらも書きかけだが、正面からみおろされることができて、そのちいささには球形が遺漏ない。みちているものには、ちかづけるが、それも植物にたいしてだからだ。
しかるべく、みおろすひとになった。
いちにち外をあるきまわり、視界の移りに、ひかりや風や匂いの変化をまぜたい。北地らしくちいさな地の溝をわたりつくしたい。肺のふくらむことで、書かれつつある草中の書きかけがそのまま一対の肺となり、らでんをおびるだろう。とおい天秤形。ひとりだけでも、ひとりによって、きらきらしなければ。
けれども近代はとりわけ横顔を転写する。切手の思想だ。しられた子規の横向きも、上野の森をおもう顔だろうか。かれの正面顔はむちゃくちゃで、みだれた沢蟹をおもいだす。あの破綻なら遺漏だらけだ。
最近をかためるため、横をいなむため、すすきが相手でも、ひとときのからだをそのなかでまわす気まぐれ。