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4 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

4のページです。

 
 

 
詩にたいする、しずかで確実な熱誠は、いつごろからわきあがったのだろう。記憶力がわるくて、そのときのじぶんに、図書室の窓辺のひかりのなか、石原吉郎の詩文庫を動悸しながらひもといたような像がうかんでこない。時制なしの像ならいまもおぼえる、たとえば水平線を屏風なす蒸気がとおくのぼってゆくようなけしきで。
 
ずっと驕慢だった。わかさとよばれたころは、ことばをあやつるちからを独善的に自負していた。けれどほんとうの詩は、そうした自負こそを、自負ということばの醜さまで刻みつけて粉砕する。
 
鉤型で内部をえぐろうとしてその内部がどうしてもぼんやりしていること。
 
斧では不可能な伐採がはじめから予想されて、じぶんを森林とも定められずに、
 
書かないことと書けないことに挟撃された一回ごとのほそさが一行だった。そこから現勢化にはりついた否定がひろがりだす。だから詩への熱誠がしずかな破滅へかわる。このことを一大事とひとに気取らせないのが「詩の生」で、からだのなかへ段階を仕込まない「くもりなきもの」など詩とみとめられなくなった。
 
からだへの段階。男女いずれでもかまわない、たたずむはだかがあって、羞恥の両手でおおわれてその顔がみえない。ゆうぐれの図書室の窓辺でそのように懲罰されている。発語能力もひとつの顔だとすると、その顔すらない、縛れないポーズの謎のほうがむしろ詩ではないか。石原の「位置」を、往年そう読んだのはたしかだ。
 
たとえばなし。はじめての非人間と自覚した刹那、その直前にであった者が最後の人間となる、そんな相対法則が生きているとして、それゆえ詩を書く者のつどうのがたのしい。じぶんはどちらだろう。
 
その位置からのみ、往来する脚だけを見上げることのできるふかみもある。地中にはまってしまった非常階段でなければ、塹壕か。かずかずの脚はきっと朝市へむかっている。むろん詩は塹壕のなかに位置できない。だからみずからあるいて、朝市へむかうのだ、それも顔のないまま。
 
 

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2014年09月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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