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数日まえのゆうがた、まったく真上に雲のない空から、はげしい天気雨がそそいだ。JRのガードをぬけたとき駅前の紀伊国屋のビルの脇からおびただしい雨の糸がななめに空気を切りつけてくる、それはしずかで不思議な数分だった。「光景」とよぶしかない眼前のひろがりは、西日に照らされて、ほかの通行人も雨糸を避けるのではなく、うつくしさに呑まれるために、ガード下をたちどまった。自然の理路がすごいことになっている、そのおどろきだけにつつまれて、ひとみなのことばないからだが共鳴していた。
いらい数日、空だけをみて、札幌のひるまをあるくことにした。学校の周辺も自宅ちかくも、みな平地で、あたまに地図がはいっているからできること、もし坂道があればのぼるときしぜん坂道が眼にもはいってしまう。
もちろんおなじような天候の神秘など体験できなかったが、危険といわれかねないこうした歩行での規則にみずから励んでみると、「空そのものをあるいている」幻惑が頭部をつつんでくる。
あおさへはいってゆく、あしもとをおきざりにして。
遠近のはかりがたい「空の光景」があるくはやさでちかづいてくるようにみえて、そこにもともと指標がないのだから、相手が底なしなのだとやはり寒気がしてくる。みえているのは時刻のようなものだ。電線がなければ、前方と上方のかけあわされた青のくぼみをさらにざんこくとおもえただろう。じぶんをみない、かんじない、そのことが空をみつめる眼の把持を純粋にしてゆく。あるきながらもからだが置き去りになってゆく、いままでおぼえたことのない不如意が刻々のこって、
まるで分離があるいているような戦慄に目覚めてゆく。
からだの部分化、段階化についてこのごろおもいめぐらせているのだが、あしもとを消したことで、平地ばかりの札幌の退屈に、ゆうれいをたちあげることができたとおもう。ただしじぶんと空のどちらがゆうれいなのかはかんがえないでおいたが。