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ひとが前非を悔いあらためるため、そのために学問が要る、というのはしんじつだろうか。
たとえばうかぶ雲の刻々のかたちの変化に、刻々のかたちの悔悛をみとめ、みあげることそのものまで悔恨化してゆく。詩学への眼とはおよそそのようなもので、空間と連絡のないことばを自動的につむぎだした、わかい驕慢への怖気は、たんに変化しつづける空の層を眼底にうつすことで、なみだをたたえてゆく。かなしくてやりきれない。
いいかえるなら詩学は、直観による瞬時定立などではなく、時間の幅のなか不如意にゆらいでいて、そこではおのれを規定するものが静止したなにかでさえなく、範囲化の失敗というべき心情へいつもうつろってゆく。上下左右を弁別する傲岸な決めもこわく、だから悔恨する。(視点を基準にするなんて――それでも、)
みあげることが天空をみた。
さだめは、みたび否んだのちかならず鶏鳴がある、そんなかたちをとるだろう。けれどもわたしたちへ救いがさしのべられるのは、三度目の否定が鶏鳴によって脱色される夜明けにではなく、一度目と二度目が後知恵でかえりみられたときの夜にだった。救いは先験している。しかももうきえている一度目と二度目が天空でとうめいな腕をまださしのばしていると知り、過去がきえるなどなにかのまちがい、そのあかしにひとがからだを地上に建てていると力づくのだ。夜明けから斜めに萩がなだれてくれば、それにもふれるだろう。点がひろがるには、にじみとなるひつようがある。かなしくてやりきれない。
ゆびが萩にふれていれば、その萩もそのゆびへふれている。ゆびのない萩にゆびがでる。相互性はこうしてひとたび盤石だが、じぶんにかえれば、この萩によってゆびがふれる以外をけされている点に気づいてしまう。だから枝にふれながら、空をみあげる。ひとときの範囲化の失敗、つまり詩学として。