赤い殺意ほかメモ
詩が書けない。北大文学部二学期の授業準備のため、このところDVD漬けなのだった。じつは二学期はアニメ授業1、映画授業2、と映像論にかたよった構成になっていて、なかなか息をぬけない。具体的には「宮崎駿論」「50年代アメリカ映画作家論」「60年代日本映画論」の布陣。
60年代日本映画論のほうは、川島雄三(の大映作品)、増村保造、蔵原惟繕、成瀬巳喜男、吉田喜重、加藤泰などの、「女優とノワール感覚のからまった幻惑的な映画」を論題に乗せ、分析しようとおもっているのだが(大島渚は去年の授業でやったので割愛)、最後の一本がなかなか決まらないでいた。鈴木清順の『春婦伝』にしようかとおもっていたが、ヒロイン野川由美子は好きだけど、他の女優と較べ弱いし、作品が情感的で好感がもてても「清順調不連続」の点で異質だ。必然的に最後の切株が無時間性とどう関わるのかなどが、問題設定の中心になって、女優が語れない。どうも気乗りがしなかった。似たような映画ではやはり増村の『赤い天使』のほうが好きだ。
それで今朝の未明、今村昌平の『にっぽん昆虫記』(63)、『赤い殺意』(64)を立て続けに観る。女の土着性の強靭さを描いたいわば二部作だが(他の今村作品より女優中心性が高い)、それぞれ大学生のおり名画座で観た時には、重厚さ・アクのつよさ・部分的な隠喩性によって、傑作とは確信してもリズム的に敬遠してしまったのだった。たとえば『にっぽん昆虫記』の左幸子はうますぎた。「女の年代記」映画では、同時代の高峰秀子よりもさらに批評的な悪辣演技を披露している。けれどそのことに価値が見出せなかった。
ずっと観なおさないで細部を忘れていた『赤い殺意』は、いまノワール映画として観ると、ときにユーモアを盛り込まれながら、「おんなの行為」の連鎖(多くは非決断と突発的な英断の不均衡をえがく)がいかに具体的な場所=土地柄とからまったノワールへとみちびくかでするどい洞察に富む。出だしの重さがなければ――尺数があと20分ほど縮まれば、さらにぼくごのみだっただろう。
ヒロイン春川ますみは饅頭をつぶしたような顔、しかも肥満体で、60年代メジャーが展開した「美と悪」、あるいは「情念と不均衡」のノワールな連関を一見欠いているようにおもえる。春川の顔がしだいに「可愛く」「切なく」みえてくる展開の魔法が命だと往年はかんがえていた。ところがこの映画では非意味にちかいユーモアがノワールをつうじて、仙台を中心にした土地のなかで春川のからだを組み立ててゆく。この経緯に、『にっぽん昆虫記』や『エロ事師たち・人類学入門』(67)の艶笑性とはちがう独創があった。どういうことか。
一言でいうと、他の今村作品では身体が断言的なのだが、この作品ではそうではないのだった。このことが彼女との性愛の相手となる露口茂、西村晃の反射動作からもつたわってきて、となると、この作品の二時間半にちかい長さも、不透明性の厚みのためにひつようだったことになる。春川は「長さ」のなかでくらげのようにゆらぐ。くらげなす日本の、「国生み期」の原型イメージとして。
具体的な分析は授業にゆずるが、日本映画史のなかで特筆すべき点だけメモしておこう。藤原審爾の原作という点では吉田喜重の『秋津温泉』(62)が先行するが、吉田はたぶん今村『赤い殺意』の達成に衝撃をうけたはずだ。それでおなじ露口茂をつかい、しかもヒロインを美人の岡田茉莉子に変えて、男側からの一方的な懸想と暴力によって、崩壊してゆく女の身体をおなじくえがいた。
その『女のみづうみ』(66)は川端康成『みずうみ』が原作と知られているが、欲望対象を尾行する男の奇怪な心理が風景と溶解してゆく幻惑とはちがう、美学的なハイキートーンの幻惑が中心化される。それは、男と女の溶解が白光化するということではないだろうか。したがって川端の挿入的な一文が文脈のどこにも帰属できず、奇妙さの棒になる、原作の最大美点が無視されている。映画-小説の均衡では、たしかに原作が貶められていた。だから呪われていた。相手はのちのノーベル賞作家だ。
話をもどそう。驚くのは、ヒロイン春川ますみの居宅が線路際にあり、また仙台の市電の最寄にもあるという設定によって、さまざまな汽車・電車のシーンが『赤い殺意』に召喚される点だった。降りた市電の逆方向の市電にふたたび乗り込み、露口のいるストリップ小屋へ春川がむかうときの、掟破りのカメラワークに唖然とする。
あるいは春川の乗った機関車の客車輛に露口が乗り、春川を追うようすをホーム上のレールにしつらえられたカメラが車輛の窓ごしに追い、カメラがいつのまにか客車輛に乗る。リチャード・フライシャー『その女を殺せ』にも匹敵する、対・列車にかかわるカメラワークの創意。これにたいする対抗心が、吉田『女のみづうみ』で車輛を連続して露口が逃げる岡田を追う、ハイキートーンの縦構図・前進移動ショットの幻惑を呼んだのではないか。
つまり吉田『女のみづうみ』は川端原作の自由な翻案といわれるが、今村『赤い殺意』の自由な翻案でもありえたのだった。べつの言い方をすると、『女のみづうみ』から川端原作の痕跡が消滅したのは、今村『赤い殺意』の痕跡が代位されたためだった。夏・冬のちがいはあるが、「場所の移動」の幻惑も両作に共通している。むろん『赤い殺意』は汽車・列車映画として映画史上の白眉でもあった。走行する汽車にたいしてどこにカメラが設置されるかでも驚くべき達成がみられる。この点ではロバート・アルドリッチの『北国の帝王』とも、しのぎを削るだろう。
むろん「死ねない土着性のおんな」を描いた点では、大島渚『白昼の通り魔』(66)の影響元になったともみえる。ただし『白昼の通り魔』の川口小枝は「死の不可能性」によって自殺完遂から放逐される女だった。ところが『赤い殺意』の春川ますみは、ぼんやりした意志の不透明性によって「死ねない」。その代わりに、楠侑子が仙台駅前で突発的に「死んでみせる」。肥り肉のくらげは周囲こそを死の海にする――この見切りが、民俗的なものとノワールがからみあうことで生ずる新たな世界観だった。
50年代アメリカ映画作家論の準備では、『カモ』『静かについて来い』『その女を殺せ』と、リチャード・フライシャーの初期の三作を収めたDVDボックスに圧倒された。連続殺人鬼を追う『静かについて来い』は彼の後年のカルト作『絞殺魔』のあきらかな先駆。50年代アメリカ映画作家の面々は懐疑する知性とともに、かたちはことなれど共通して不吉な感覚がある。だから好きなのだ。
『静かについて来い』はラスト、工場を舞台にしての高低差を強調した追跡アクションも見事だが、とりわけモンタージュ写真のかわりにつくられた犯人の背格好・服装を再現した「のっぺらぼうの人形」が不気味だった。この一点で、大和屋竺『荒野のダッチワイフ』、押井守『イノセンス』などとならぶ「映画における人形史」の達成点とわかる。これも二学期授業であつかおう。