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たどりつくと、ひとつの池はひとつの音域だった。草のざわめきにかこまれて、こまかな皺をふるえてきざむ水面が、聴きとりがたいが、音の蒸気を発している。むろん繊細な耳へは、くうきのうごきだから音と蒸気にくべつなどない。
中学生のむかし、音楽の授業がときにくるしかった。じぶんの息のことなるいろが周囲にあらわになる気がしていた。笛による十六小節の作曲を披露する。なんとなく転調してしまう気散じの境に、うつろいがちな悲喜をよみとられる。「きみは草でできているね」「だからきみには苦痛もあるね」。
そらはくもっていて、くうきが大がかりに閉じている。閉じたもののなかに限界をもつ分布があるから音域もかんじられる。それが音階となるためには現象すべてを配列化しなければならない。そのスケールこそが、階梯状のなかでもっともあこがれるものだ。これをしない耳がかなしみのあまり蒸気を聴きだす。
ちまたをあるいていると、いかんなく人語も音域のなかにある。ところがよく聴くと人語の音階がはかりしれない。わたしたちの浴しているのはなんの池だろう。
「だからきみには苦痛もあるね」
芭蕉の古池句は、空間が音域をなすとして、それが単独性であらわされるさいの世界意味の脱色を突いている。ふかいあれはその芯がこわい。かぎられた音域を祝うなら、そこへ持続を導入しなればならない。おなじもののつづきが耳の神経をほぐしてゆく、それでもそれらを部分にしてゆく。
《古池や目高ながるる水の音》、――人語、人界。おとにかなしみのない詩なんて。