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人体のデッサン力が手のえがきにとくべつにあらわれる、というはなしを講義でする。しかも少女マンガでは、魚喃キリコの登場までまるで満足をえなかったと。八手のように、おおくの手がむしろ手そのものではなく手袋に似ていた。デフォルメ、記号化と称して、認知の稚拙におおわれていたのだった。
手の甲からならびあやしくゆびがわかれ、しかも量感とかたちの中間にあり、はたまた自在にひるがえり、にぎり、ゆびを多彩に折る手は、そのほかにも掬う、振る、撫でる、爪弾く、掻く、つまむなど人体中もっともふくざつなうごきをする。これほどうごくからだの部位などない。白紙に線だけでえがかれた手がなぜかしろさまでつたえるのなら、すでにかたちの流線形と、いろのしろさにも経験上の相関がある。
手のデッサンのため、たとえばあれこれ向きを変えうごかしてじぶんの手をケータイに撮り、模写してみてもはじまらない。ほんとうなら手のポーズは直後と直後のあいだをうつろう。とらえられない中間にいつもあって、ひとたびは途上と未然にかかわり、ふたたびは事後や失敗もさししめす。手をえがくのに視角の無惨をかんじなければならない。手と眼の対峙は、再帰性の範疇をいつも超える。そうして「そこにある」をかがやかす。
手にもかなしみがたたえられるのではなく、かなしみが手のかたちをしている。
かかげられ夜空をさすっていた、星と同属の聖なる五芒が、しごとや知性によりうごきを複合されたとみえるが、あこがれの起源からすれば動物状態へ堕ちただけだ。このとき顔が手の影となった。それが、手が顔の影になったと偽られたにすぎない。
手の美貌は、エレガンスよりもさらに無為を散らす。うつくしい手を体験してみればわかる。掬ってもゆびの隙間からもれる水や、うすくひらいた手からふきとばされてゆく木の葉の強調、映画ならまずそんなものを視る。年齢別の展覧のうちに美貌の手が現れ、それが水や葉にふれ、なにかを掌上へのせる、そうしたことどもへ思いをふやせば、
手より手へ落橋のある秋日差