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書く主題のよわいときには詩を書かない。それからすると投稿欄などでも、まずは技術ではなくモチーフで詩が判断されてよいとおもう。どうせ世の中は、どう書いたのではなく、なにを書いたのかのみで本の把握されてしまう時代だ。
ぼんやりと書きたい気分があって、書きだしてことばがみずからの組成をあやつってしまう、そんな詩の曲芸をとりわけきらう。単位のなかに平衡が舞って、かたちとしては天秤だらけにつらなっている。なにとなにを釣合わせようとするのだろう。むしろ比喩になれないかたちや音があって、ことばはそのまえに無力だという本質直観が要る。
書く主題のよわいときには詩を書かない。わたしはへってゆく動機で輪郭をあやうくし、さらにうちがわを掻きださないかぎり刻こく冥くなってゆく。いないわたしが納屋にいたかつての追放。檻から出るごとにひるまを泣いたあの反復すらとてもよわく、いまや食も動機をよわめてゆく衰頽をからだへ容れている。比喩ではなく、この二重性が今後の表現かもしれない。そのうえでひとつの地上を、とさらにねがうのだ。
片目をつむってみる。すると頭部のなかに階段ができる。二段のはずがかぞえられない段数にもなっていて、その段数から耳をのばしてみる。
「つか」と訓まれる塚・柄・束は、みなおなじではないだろうか。それぞれがそれぞれの厚みをしるしている。このかぎりでこれらはかたちではなく、おもいのぶきみなおもみだ。
朝食にも晩食にもしくじったきのうは無産で、ぼんやりと数週まえにみた画像をおもいだした。湿地にいる白鷺のたぐい。脚を一本だけにしてながく建て、飛ばずとも空中に盃のようにうかんでみえるそれらは、まるく屈しまるく反り、その長首をゆらす。瞬間ではとらえられないもの、気散じ。しかも翼の開閉が体形を増幅して、一身に百態もあるのではないか。このことが鷺をしろくする。あのうごきやまないすがたが、感覚天秤をうらぎりつづけるかたち、そう、「つか」ではないものだった。
それでも書く主題はそうした時空のひらけからやってくる。想像だけが、かたちでしかないものを「つか」にしてゆく。ひとにたいすることでもそうだ。無惨だとおもう。