11 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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ふるいひかりを感覚することがある。というと、光年という、距離と時間のあわさった概念がもちだされ、アンドロメダ星雲から二三九万年前に発せられたひかりがいまにとどいているなどと、人界をこえた遥かさがつげられる。けれども眼のわるいわたしに、そんなものはみえない。
 
むしろ、かたちと質感から、ふるいひかりがもれでてくる。たとえば桃と梨では、食用の起源は桃のほうがふるそうなのに、梨にこそふるいひかりをおぼえる。きっと眼の底に梨色のまだらがわずかながらあって、それがたまたま実在の梨と反応して、梨の在る範囲に梨色を知覚している。梨に梨色を視ているのではなく、からだに仕組まれた梨色が劇的に梨と同期して、からだのなかに実在の範囲をかんじているのではないか。ゆうれいにたいするように。
 
水気と蜜がおおすぎて組織の稠密を欠き、そのしずかに在ることがしずかなくずれにあらがっているとまで不安にさせる梨は、だから想起にかかわるくだもので、わたしじしんに内在された梨色をぼんやりとゆらしている。ざらつきのあり光沢のない果皮が梨を範囲化して、わたしをつつむ肌に似ている。あらゆる相似がふるいとおもえば、梨のかたちと質感までふるい習いをつくる。桃なら傷みが華やかすぎて、この径路をうまくもてない。梨は径路にもかかわるくだものだ。その埴輪めく実が出口なく閉じているにせよ、
 
みえるものがくぼんでいる。そこに。
 
「うつつ」と「うつる(映る/移る)」がおなじ「うつ」を語幹にして、そこに「うつろ」までくわわったのなら、梨にも「無し」がふくまれるのかとおもうが、ちがうようだ。それは在り、てのひらにのせられる。梨はかたむきにもかかわるくだもので、のせたほうの半身がふるくなる。
 
 

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2014年10月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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