12 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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肌寒くなったので、今秋はじめてひとり鍋にする。具材はすくなめに、葉物、鶏、茸、豆腐。どこかはかない味を、酒でいわば順延してゆく。そんな順延の波にのると、鍋とはまったくべつのものがあらわれてきて、それがみずうみだったりする。不確かは、水禽の貌で食すのだ。
 
久保田万太郎の慨嘆句《湯豆腐やいのちのはてのうすあかり》はかれらしく達者だが、十七音でいいおおせたこと以上の余剰がない。たとえば十四音を下に足そうとしても受けつけない、それじたいの箱庭にすぎない。そういうものこそが俳句といえばそれまでだが、むろんはじめの直観をうらぎって、できあがっている内部がゆらめきやまない拉鬼句だってある。
 
即興演奏には楽想の発端があり、それが空間へ突き刺さって、できた傷が治療されてゆく。みたことのない傷にたいし、みたことのない治療。しかもそれが建築的にならないのは、直前のおぼろなものを、直後がべつのおぼろなものとしてとりかえす、そのやりとりの境に時間が溶けるためだ。中心のないことが中心になってゆくのにぼんやりとしていると、とつじょ切りつけられた音形におどろき、その解決に美をかんじる次段もある。やがてかたちの個性をおびてくる着想がどうおわるかをおもうだけで、動悸がつのってゆく。階段にある、こびとの死。このときは自他のからだのようなものをおもっている。
 
そんなふうに耳は展開にびんかんだが、ひとり鍋を半時間ほどあさる、この舌のこころもとなさはなんだろう。ひとつの原理しかない。なにかたりない味に、たりなさが「みちていて」、不足と充実とを同時にもたらすから、食が散文的にすすむということだ。ここにないを食べる。ないを飲酒がゆらす。ながい楽興に似たものに舌もこがれるのだが、演奏よりたんじゅんに食は終わる。食べるからだがあり具材がある食のほうに、世界性が明瞭だからだ。
 
うすあかりととりちがえる、食の個物ではなく、食の刻々がないか。
 
腹がみちれば、窓辺がひつようになる。酒のほかは最低限を容れたからだを、からだとしてみとめるためにすこし反らす場所。なにもかんがえなかったのに腹がてきとうにみちていることはグロテスクではないか。じぶんの現前のように。
 
 

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2014年10月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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