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《くもりの日のほうが、モノがよくみえる》というクロード・モネのことばは、モノの明視性が明度ではなく、内発的な実在性にこそかかわっていることをよくしめしている。にじんでみえるもののほうがただしい。そんなふうにみえているひとをある日は美貌ととらえた。
関連して、《ポルノグラフィはみえない》とするラカン派のことばもおもいうかべる。「対象をみようとしても自分自身をみてしまうから」とオチがつくのだが、よくかんがえれば自分自身などみえないのではないか。
ポルノグラフィのなかにはたしかに絶対的な美貌がいきおいをしめすときがあり、そこでは精神を欠如させての内発的な感覚が、ひとの持続をうらがえすような消長をつづけている。実在のかたちをしていない驚異的な実在、クラインの壺。それが愛だけを作用にしてひたすらうごく。そうなると「みえない」がみえているとも、「みえる」がみえていないとも感覚してよいのだし、不可視が視を葛藤づけることにほんとうの視があると、じぶんの視覚の運命も収斂してくる。不吉だろうか。
選択がはたらかず、範囲のみ、みえているときもある。そこにあふれているのは多数、意味づけられない部分の関連、範囲がなおもみせようとする周囲、いっさいを還元してしまうひかりの質、たいするものにかならず奥行があるといった法則で、どこにもモノがないのだ。内発のけはいだけがさしせまってきて、
そんなふうにみえている特定できない全員を、ある日は美貌ととらえた。
「ひたすら」のみえる時間もある。湿地にうごく、丈のたかい葦むらなどにそれをかんじる。ゆれているのもかたちではなく声にちかい。それで理想的なポルノグラフィが現れている。どんなひとの貌のなかにも、おなじゆいいつの視線しかかんじなかったくもり日がおわって、それらをみた。眼はかわいていたのか。それとも逆だろうか。