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精密さのための労力を節約できないものか。
たとえばフルアニメ的なものの驚異は、作用主体と作用域が設定されたとき生ずる。作用が域に物理法則をこえた変型をうみだし、その変型が作用を再規定する。さらにアフォーダンスを導入すればこうなる――せかいが情報をもち、それに直面する主体の行動を順につくりあげるが、行動をつくりあげられる主体も情報だととらえかえせば、相互性の無限そのものが幻惑にゆきついてしまうのだと。むろんそれはフルアニメのなかばとるところだが、「物語」はそのいっぽうで間隔、跳びのある進展を志向してゆく。それがなければフルアニメはアクティヴな一場面のみで精密さを昂進しつくし、焼きついてしまう。
焼きついてしまうひとみを冷やすために地上がしていること。これも例をだせば、ある地点から三本の樹木が丘のうえ等間隔にならんでみえて、しかもそれを「三本」と要約できて、ようやく間隔を綜合する涼気がただよう。授業をしていて気づく。宮崎駿のしていたことは、「精密さの焼きつけ」「進展」「間隔の綜合」、これらの鼎立だったと。
詩は使用カードを減らし、後二者のみの複合によって、「精密さの焼きつけ」を幻想させるものかもしれない。そこでは展開された全体が最後になって現像の対象となる。それまではやはり生々しい。ところが最後、垂れている行の余白、聯間の空白が、川で傷つけられた地形のように詩の事後をかたちに焼きつける。詩はフルアニメよりも情報上はずっとかんたんなものでつくりあげうる。そういう詩ではたりなさが与件となる。
三を二にする。二を三にする。二角形を概念にする。
漢字三文字ながら二音であるもの、「山毛欅」「百舌鳥」「香具師」などのふしぎ。かずをおとが縮約してしまうそんなあらわれに、せかいの涼風がふきわたっている。お化け煙突のエピソードの功徳だってそれかもしれない。立ち位置に、なにかのみえなさがいつもふくまれている条件が、それじたい救済なのだろう。
《あるかないかもわからない わたしらの考えの中に/みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす》と書いた佐々木安美が最大の思想家だ。若葉は鳴りにおいてふえているが、「鳴らす」と書かれ即座にそのかずを減らす。わたしたちは増減のリズムをもって、せかいへと没入する。