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わたしはクルマの運転ができないので、できるひとのきもちや感覚を、いいかげんに想像することがある。
直線をはしっているときは、「ちかづいている」と「すぎさってゆく」の、どちらがまさるのだろうか。どちらのまさるともなく、距離という概念のなかみがさらさらこすれ、そこからぎんいろがあふれだすような錯覚をかんじるのではないか。せかいがフロントガラスのなか縦に伸縮して、それのみをクルマ本体のおもみが昂奮しながらはこんでいる。なにもかもが、すばやく、ぎんいろだ。とりわけ秋の野道をひとり驀進するときには。
円の軌道そのものを走ることは、そのようにしつらえられた軌道をゆく以外ふだん経験できない。それでも「いま走りぬけている」弧が、じっさいは途切れている円周のかなりの割合だと体感すると、せかいを変えてゆくいろが走路から湧きだすのではないか。視界ではなく、ドライバーのからだのいろを変えるように。
かんぜんに円形の島があり、そのすべての海岸線に道が敷かれクルマを走行させても、すべて円形を走りきったと自覚するためには、もとの場所にふたたびたどりつく時間がひつようだ。こういういとなみには達成の意識がからむから、ずいぶんとたいくつだろう。道のつながりもさして意味なく、海の東西南北をずっと横にできたことが一周の意味だったと気づくまでは夢想的にもなれないだろう。
そうではなく、弧上をまがりつづけているある持続が、フロントガラスごしの光景を横にながれさせ、その視界そのものが、せかいを構成している部分的な円になやまされることにつながっていると知れば、クルマの運転も孤立的になる。円をかんぜんとみなす世界観では弧が潜勢なのだから、おおきなカーヴを運転するのも時間内の潜勢にともされることで、まがっているうごきだってすすんでいるうごきに敵対的だ。進行が挫折する危機感がはしって、カーヴの終わるのが習いなら、せかいを変えるいろも光景ではなく、みえない縫合と関係がある。そういう嘘めいたゆらめきが、すぎさっている地勢なのだ。
それでいつも風向計が光景ではなく縫合をうみだしていると、泣きたいようなきもちでじぶんのからだに刻印する。それとともに、絶望的な円錐をきりだしてゆく。円錐状の島が走路に数々できる。とりわけうねうね蛇身をえがく、枯葉だらけの峠道をすぎてゆくときには。