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わたしはふくざつな作曲のできる才能をとりわけうらやむ。ひとすじ縄ならぬ和音の推移で感情のかたちをつくりながら、しかもそれを天上化させて、聴くからだを置き去りにしてしまう冷静な頓着をいっている。そのひとからは「近接の遠望」がつむがれる。
夏のおわりに、秋海棠の群生がゆらめいて鳴った。鳴りつづけた。おとはいろを秘めているが、秋海棠の鳴りはその花色とかかわりなくしろい。群生だからまなかいにも遠近があり、とおさがちかさをひるがえしているように聴えた。
かんじつづけることは、刻々かんじることにさいなまれる。
とうぜん持続と継起にはすきまがあって、作曲のはいりこむ領域もそこだ。そこがうすものの裾に似てゆれるなら、おんなのようなものさえ、えがかれるのではなく、「そこはかとなく」作曲される。過去が現在としてうごく。
頬杖すがたのもっとも似合うのは作曲家の肖像だろう。腕のつくりあげる三角の空洞から耳ちかくへと、余人には聴えない、おとの風をとおしている。かならず上体がななめになる。まっすぐではあらわれない前方を、ななめになすことで、光景のずれから音の着想をみずから寄せているのだ。意外かもしれないが、波打ちぎわをポーズでしるすなら、前髪を垂らし、チョッキを着衣した半正装の、机前の頬杖がいい。すがたのまえには、きっとひらかれた窓がある。ひとのまえにある窓のかさなりもまた構成的に作曲される。
さいわいかどうかは一概にいえない。たとえば秋海棠をかんじつづけることだって、秋海棠を刻々かんじることにさいなまれたのだから。