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ひとつの角度そのものがすきというのはありえないが(「わたしは三〇度をこのむ」とか)、角度の連鎖にひかれて息をのむことなら昨日の呑み屋でした。とはいえ角度の連鎖で鳥肌のたつのは、ふつうはドルフィ的な音形変化のほうだ。そんなぎざぎざからかんがえをひろげるためには、やはり弧がもんだいになる。
弧は角度変化をあたうかぎりこまかく連続させて、線の形成に円滑をなしたものだ。輪郭のうちがわから角度は無限数、つきささっている。どうじに、角度は輪郭のうすさのなかにちぢまってかぎりなくねむってもいる。なだらかさにある連続の保証が、たとえば横顔では、みじかい音楽の漏出にまでなる。丘よりもずっと単位のちいさい、それでも和音要素のおおい小曲として。
正面顔になれていると、横顔がとつぜんあらわれる。反転しあう弧のつづき。向かいの席の、みなみさんのそれだった。ひたいがまるい。下に視線をながしてゆくと、それが眉間でくぼみ、前方のくうきにつままれた鼻梁がなにかホイップクリームの、泡の錐のようにもみえる。形状そのもののほそさをかんじる。たしかに横顔の中心はそこなのだが、物量がなく弧の変転だけが、こころもとなくただよっている。
そうしたものを上あご、くちびる、下あごの順でうけとめるのだが、くちびるをうすくひらけば、うすいものをうけとめている印象がさらにうまれて、あどけないはかなさがひらく。リタルダンドからア・テンポへのながれ。色白のひとなので、連続線が内包を夢想する「落ちかかり」が、すべて白とくゆうの寵としてういていた。
線を肌理にすると弧となる。そうしてとつぜん横顔があらわれたのだ、といった。
みなで店をでると、でたところから夜がくらさの四方へほぐれていった。いちど横顔のなす線にひかれた感慨は、夜のたかい位置の髪の毛に、かたちをうしなったまま掲げられていた。