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時のながれに並行する身は、どうしてもしずかだ。きぬずれまで消すと、時のながれをほんとうに実質化する無音がさらに聴えてきて、それが未明などに詩作をうながす。
やっかいな詩のおと。どうしてとくべつなそれは、多彩なのに、多彩をしずめるような円滑さでぼんやりつながっているのだろう。概念語までそう聴えず、しかもたがいに溶けているのだから、なにかの息がいつもあいだへ作用しているとしかおもわれない。
同異のこともある。子音分布、母音頻度で、詩のおとが悲喜へとわけへだてられるのか。広範な分布とどうじに、おなじものの偏りだって詩なのだから、ちがうものと、おなじものとが、詩のおとのながれてゆくあいだにくべつをなくす不全を、たとえばここでかなしみというしかない。
したしみをもってちかいひとの、そこにひらめいている同異。
直前が直後とおなじであれば分節がとりだせない。それらがちがうのであれば分節だけがあり、前後の別が、おとのちがいと同程度へおとしめられる。そうしてわたしたちはなにも認識できなくなる。したしい詩のなかの刻々の同異は、おそろしいことがうつくしい。
むかし、二角形もんだいをほんとうに提起するのが喫煙だ、と書いた。そのもんだいはふえるか減るかのどちらかだ。たとえば詩中のことばひとつひとつは、一角形のしずけさ。
次元へと敷衍してもいい。点的な一次元をもたされて上位次元を想定できない詩作の刻々が、語りのなかにみいだされる人称再帰を四人称とまでしてしまうのは、なんの超越か(横光、藤井)。たしかにしずかがさらなるしずかへ微分されてゆくと、なぜか四にかかわるおとが聴えだす。