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21 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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おうぎを水にくぐらせる山中智恵子の歌はどんな全貌をもっていたのだったか。ネットでしらべれば《水くぐる青き扇をわがことば創りたまへるかの夜へ献る》とある。じつにみごとな再帰性のうただった。とおさをはさんでいる。たしかに往年はその扇に、みずかきのある手を幻想していた。しかも「を」が二度にわたり黙語となっているとかんがえないようにしていた。
 
なまりをのみこんだ熱いのどで往生していると、鶴や鷺など、長頸の鳥のすがたがうかんでくる。それらつばさあるいきものが、さらに鰭あるいきものへと変成して、鳥と魚にくべつのなくなる岸辺すらみえてくる。あおいあれはどこだろう。かぜをひくとはそんなながめかもしれない。岸辺を念じて痛むからだのところどころをさすると、ゆびのまたにもうみずかきができている。幾川のゆめをおよいできたのだろう。
 
石原吉郎の奇怪句には以下もあった。《懐手蹼ありといつてみよ》。からだの部位のうち、内在するものは水の作用をうけている。針をちくりとやっても、腑ではなく、ただぼうぜんと水にふれるのだ。
 
ふだんなら、だれかの手をにぎると、からだの鍵を手渡している感慨がつきまとうが、ゆびのまたにできかかったみずかきは、やわらかすぎて、手をにぎりあうとこわれてしまう。それで「ふところで」の位置におちつくか、水にくぐらせたそれを青くみて、やがてきえゆくのを夜ぜんたいにひろげるしかない。ひとときにしてきえるみずからの部位を扇とみるたび、まなこへきらきらがのこる。あれがやまいを凝視した再帰。
 
あおいあれはどこだろう。とうぜん、ひとではない。
 
 

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2014年10月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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