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全身がきりとられた象牙にみえる構図やひかりが、露天湯でのはだかの、うるわしい定型のひとつだろう。とおいそれに雨がふっていた。
時雨とよばれる、層をなす時の擦過が、つぎつぎにたずねてきては沈思をふかめてゆく。湯けむりのとおくに、ふたついじょう象牙のみえるばあいもあって、秋隣をおえた時節に、となりめいたところがまるでない。みやる眼すらほそくなってゆく。
したしいからだにはふつう嚢をおもう。内臓や血がびっしりつまっている不気味を逆転するのではなく、わたしたちがものをおもいめぐらすとき、内臓感覚が同調すると知って、これを遠人にもみとめ、いきものをかんじるのだろう。ところが象牙いろにひかる無魂の裸身は、そこだけの雨のように湯けむりに傷をつけている。以前もみたことがあった。望月遊馬の詩句をかりれば、《雨が雨に対峙しては見つめ合いながら降っている》。
ひとあめごとに吊り橋をぬらして冬をまねく、くうかんとは無縁な、よぎるだけの時雨だろう。ものがほそくみえる。
やがてつれあいとくだる坂道で、しらかばの黄葉がさみしい。黄金のかぶりをへらしながら支えに象牙のあらわれてくるすごさがある。日に照らされれば、黄葉としらほねの幹の相関が、それじしんの発色と縦のつよさで、まむかうまなざしをころしつくしてしまう。
そういえばしずかにあふれだす湯にも、あかりのあらわにするY字路がおおかった。