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こことあそこが空間的に、あるいは「いま」と「やがて」が時間的に、それぞれ連続していることにしかこの世の神性があらわれていない。なぜ、なにもかもが一挙に連続しているのだろう。あるくときさえ、とおくがとなりなのだ。あるくなかでゆれているのは、つづきあるくつづきそのもの。「この点」をわけられないなんて、ゆめのようなことではないか。
いちばんたいせつな坂は小学生時代の帰途にあった。まだ家のまばらに建つだけの分譲地では、傾斜の上縁が空白で、そらにつながってみえた。ななめがめくれたがっているとかんじて、坂であることをへらす。途中の原っぱでの道草も、ひと息でののぼりをさける、ちいさな野営だった。そういうばしょにむらさきづいたイノコヅチが、待つすがたでわだかまっていた。
わたしたちは途中だ。ちりとなるまえに、たねや胞子として、ひとのいないあいだをながれる。
途中をみぬかれて、なまなましいわたしたちは、途中どうしをあいさつさせるべく、からだを接しあう。あらゆる不可能が、あいてのばしょにじぶんを置けないこととかんがえれば、肌のふれあいもかなしいが、それはたがいにちかづきすぎているためだ。ここをあそこへつなげたい衝動ならもとからもちあわせていて、あいてにふさわしい距離もここからの三メートルていどととらえなおす。その三メートル四方を知るための、原っぱの道草だった。そこらへんの円周がなぜかいつもゆれていたのだ。
坂をみあげると、坂のてっぺんに接するそらのいちばん下も裾となってゆれている。とおくの正体とはあんな接触ではないか。ゆうがたの極限にはそのほそい境界が、一瞬コロナとなった。あおりをうけ、イノコヅチのばしょがまっくらにしかみえない。