24 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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こどもは、こぶしがちいさく、眼がおおきいので、にぎりこぶしを両瞼にあてて泣かせる小津的な演出は、眼の二乗が盲目だという、こどものもんだいをほりおこす。あの定義はぶきみではないだろうか。
 
わたしはかんがえとおぼえの発育がおそく、ものごころの根づいたのは十歳時くらいだった。生来の左利きを右利きにされてしまった困惑がくわわって、たとえばおぼえはじめたカタカナに鏡文字を書いてしまう失態もつづけた。もっというと、外界の刺戟のなかで、みることと聴くことすら分離できず、その混乱が解消されないで、ずっと記憶に集約される能力をにごらせていた。
 
生を踏みはずしている往年のそうした例外をもう復元できないが、ただひとつ妙な徴候がのこっている。犬と通りすがったあと、じぶんがふりかえると、その犬もじぶんをふりかえっている符合がいまもつづいているのだった。犬がにおいを気にしているのではないだろう。わたしの感覚のしかたに動物性をかんじてびっくりしているのではないか。
 
おとなのからだからすると、こどものからだはその細部の縮率がくるっていて、混乱をよびこむ。頭蓋がおおきいにしても空気的で、尻のほうに円滑の中心性がある。
 
かれらは気配のようにその場にいて、「その場の沈思性」と同調してとけていることさえある。そんななか感覚の細部どうしの縮率もくるわせているのだ。かれらの拾った石や貝殻は実物よりもおおきい。ちかさをおおきさにしてしまう視覚が、とりわけ「とおさ」をひらめかせる聴覚に疎外される。ただしこの判断はじぶんの往年を基準にしているだけかもしれない。
 
すがた見のなかのおのれに見入るこどもも、十歳くらいだと風情がある。鏡像段階はとうにすぎているのだが、鏡は音を映さないから、支配的だった聴覚が「じぶんのすがたをつうじて」きえはじめる。感覚の連合にあらわれてきたそんなほころび、聾化にこそ、おそらくじぶんの将来めいたものをみるのだ。じぶんの鏡映りはちいさく、すがたへさきゆきをにじませてしまうかなしみだけがおおきい。それら大小がまざってにわかにとうめいがうまれたこわさを、十歳時にさだまった記憶のひとつとして、いまもおぼえている。
 
 

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2014年10月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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