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いま住まう街区はすべてが茫漠とひらけていて、路地をおもえる一角がいっさいない。ふうけいには狭隘が荘厳をつくりあげる逆説もある。そこでは区分のハーモニカが鳴るのだ。それで、五階建てていどの木造家屋がせまく櫛比する、くらくまがったぬけ道を、気道確保されることになる。ゆめのなかで。
みあげれば、竿の洗濯ものが道の左右をたかくわたり、西日いろのそらがそれぞれのたかいがらす窓にうつっている。とじこめられた人影を、わけられた反映のうらに隠している豪奢。やりきれない。その豪奢はきゅうくつな仰角のなかにならんでいて、深秋のつれなさがそんなかたすみに憩っている。こども用の三輪車が、往年の失敗となってつぎつぎ隕ちてくる。しゃりん。けれどみたものは、ひとときにしてくだける。
路地はうたうのだ。うたいながら路地はわきあがり、ぬけ道の両端のたかさとなる。もようある板塀のなかに、月日の経過でますますしろくなる木材が、ひと肌のけはいを発している。そこにかすかな毛髪。
齢をとり、東京をはなれて、もうだれかにじぶんのつくった歌詞をうたってもらう生のめぐみもない。刻々きえる継起性を旨とする歌詞には、易度にかかわるじぶんなりの叙法があった。だれかののどをじぶんの流露がみたす。それが空間化して、ゆめの路地の左右へと、いまもりあがったにちがいない。
おんなのからだと声は両端のたかみからひかってくる。それがビルヂング構造の閉塞で否まれた。からだと声はいまや痕跡だ。そんなものはながめすぎてゆく看板にない。ひとみの底にはいまも「遊廓的狭隘」がゆれている。
はだかになるために、ひとはどんなこの世をもっているのだろう。そうおもうことが、だれかののどをじぶんの流露でぬらす。