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さほど話題とならないが、すきな葛原妙子の歌に以下がある。《黄衣にてわれもゆきたり巨いなる硫黄となりし銀杏樹〔じゆ〕の下》。黄が黄へときえ、こどくな硫黄のみのこってゆく経緯に、はかない飴のあまみをかんじる。
ねむりにはいるまえ、季節は黄を炎やし、気のふれた発情を謳うようにみえる。ないじつはねむりにふさわしくなるため覚醒をうけもつ葉緑素を遮断し、葉を反故紙になるまで、かわかしているのだ。かるみをおびて樹影のゆれもおおきくなる。ないものまでなでながら、その輪郭を音楽的になだめる樹のおのれがいとおしい。それらがさらに一列にならぶと、いろがまさに実在に先験して、還元そのもののおそろしさすらおぼえる。
かわいてゆくものにのせられ、あぶらのかなしみもうかぶ。イエローの絵の具がひとつのあぶらなら、その溶剤のテレピンも淡黄のあぶらで、テレピンあぶらに諦念をにじませてまざり、二物の境を微細にふかめてゆくのはイエローだけなのだ。内在を分布にするのみの、黄のつかいかたがある。絵においてはひかりでなく、ひかりとまざったけむりへむしろ適用される。
するどい美感のひとでも黄を着るのがむずかしい。くうきのつめたさはむろんだが、黄じたいが発光する距離もえらばれなければならない。こまかくまざっているものが、とおさに置かれて統一される。ただ濁点をおもわすすがたへと、からだひとつをおとしめること。みやびさに乞食がひそんで、だれかれでもなくなる。たまに往路ばかりで帰路のない秋、往来の奥に黄衣のひとをみかける。硫黄と同調するからにはそのそんざいも発酵している。あのひとは樹のおのれでやがて死ぬのだ。
なんの作務だろう、おのれにまざりきるのが自殺とするなら、その自殺のすがたで、とおいひとの季節がよぎる。