27 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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手ブレをつくるしぐさからだけで、みたものをおさめる。のちにたしかめられる画では、光景と撮り手のあいだの、袋のような逼塞がみえる。たとえ手ブレがなくとも「撮影の袋」の内閉性によって、じしんの畸形的な容積を得てゆくのがほんとうだ。これを撮影の瘤、といってもいい。
 
それにつけても疎林のかたすみへわけいっている、曙光の「ほるん」を撮る、とかのじょはいった。
 
ほるんのかなしみは、内管をむきだしにして、バルブめいた結節がゆびをよぶ、かたちの華やかなくるしさにある。楽器ながら、蒸気機関や町工場にもっとも似る。迷路と円のふたえのまがり。ラッパ型にひらいた、そらへのスカート。はらわたと膀胱。それらをとおくからマウスピースが吸う約束にみえる。おとをころしてゆくそんなゴシック―バロックな形状なのに、くぐもった冬のふといひびきがそこからでる。あれが楽器のうつくしい瘤だとすると、撮影の瘤を添わせなくてはならない。
 
分解して収納しなくても済むホルンケースは、ぜんたいのかたちが不規則で、日にあたらなかった地下にひんまがってしまった柩とみえる。ひらくときに顔をだすホルンの形状が、じつはカメラの内構造にまで図解される。対象は内管を経由され、彎曲のなかで開花し、対象じたいのかたちを倍音にしているのだ。《あらゆる形象は、節足か吸盤か、それともひげ根である》。むろんかたちの倍音も手ブレとひとしい。
 
自主映画的なものには、スタッフがすべてばれても監督がひとりで撮った映像が混入しているくだりがおおい。そこでは世界いじょうに撮り手の孤独が映っている。映画のかなしさはそこにきわまるのだと壇上の七里圭へ話した。あなたは王兵とおなじだと。七里はべつのところで語っている。冬の朝には、みじかい朝焼けがみたびおとずれる奇蹟もある。地上をほそい血紅でそめるその三度を、おとの瘤に翻訳すれば、それはペテロへの鶏鳴ともなるのだろうか。
 
からだをみせてとカメラ女子にいうと、手ブレ写真をみせてくれた。「これがホルン」。
 
 

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2014年10月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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