28
28
ゆうべまずたべたのは、うすあおの蔦で、くきも葉もしなしなとほそく、すこし貝割れのあじがした。とおく天へとのぼってゆく、ふゆまえの経緯そのものを、さみしいくちにいれたともいえる。
たべることにともなうちいさな接吻は、ひとへなされるものとはちがう。たべることの劫火がかおを秋野にして、そのてりはえに、当人さえ不在のようにあるべきだ。ひとつひとつを数珠につなげて失望しながら噛んでゆくには、にがい野草のたぐいが良く、にくを腹にしないよるのおうごんは、よくじつの水にも映る。ゆれる燭光となって。
さらだにするため、いろんな豆を、茹で時間をかえつぎつぎ水煮にしていった。きいろと茶とみどりとむらさき。くろまめになるまえのえだまめが丹波をつくり、そんなとおい和音をたべようともしていた。料理の芯はいつも塩。岩塩にした。志郎康さんはさいごの朝顔の、しわだらけの開花を写真におさめている。くうきでながれるものにも、たべることのくちびるがまとめてふれる。おいゆく者のからだではそれでもいつも手が発端で、くちびるが終着となる。おのれのなみだもろとも、のみこむ。
かたちをたべたいのだとすれば、橋や梯子など、よりとおくへわたしてゆくなにかを舌へのせたい。くちびると歯であじわいすぎ、あじの探りに舌がわすれられていると、生を診られてしまう。ねむりながら草になかばきえている牛馬の裔だろうか。ことばをいわなくなって内側へめくれだしたかれらのくちびるにたずねてみるといい。こたえはでるだろう。おんがくとして、きのこが語られすぎている、水と胞子だけの密談のくせに、と。
おさないときには、まむかう家族のくちびるがとおくひかって、それぞれの咀嚼がシンクロしていた。いまや咀嚼はひとりの粗食となり、ひとかみでのみこめる後悔めいたものを馳走にしようとしている。だからできるだけながいまぼろしの野草を、食事まえ、詩書から借りうけるのだ。たとえばきのうは森原智子を。