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30 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

30のページです。

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ねるまえに、めぐすりをさすのが日課で、ぶきようなので、ふとんにまっすぐ仰臥する姿勢でさす。脚までとじる。点眼ミスをふせぐコツは、近眼のひとみのまぢかに、めぐすりの差し口をみること。あなとあなとをせまく糸でつなぐ具合に、差し口と瞳孔とを緊張にみちて最接近させる。結果、眼はかくじつに点眼液をうけてさざなみだつ。その衝撃も、あかりのゆれとしてそのまま視ることになってしまう。これはなんの内側だ。ともあれそれで就寝前がかすかな吐気をおびる。みるものをはげしくみまちがえた罪障がのこったにちがいない。
 
もちろん「めぐすりのさしかた」がこんな自己法則にとどまれば、この世はおおむねやすらかだ。たとえば一定のかたちの石から視線をかんじる生のえらびもある。くうかんの内在視点を恣意的にふやそうと、石を掌上でまわしながら、めぐすりのさしどころをさがす。すると七孔のない渾沌が、そんなちいさな転がしから、妖怪をよみがえらせてくる。
 
しろめに浸食されて、虹彩の半径がちぢまっている。みないかわりに、みられないでもいたいと、眼いがいのからだすべてが憮然と外をながれる。排中律の論理とは、たぶん瞳孔意識からの直観だろう。そうでなければ隕石を、古人がかんがえつくした経緯によるだろう。
 
がんあつのたかまり。成長をやめている部位すべてのなかで、眼球だけがまぶたにおさめられていまも膨らもうとしている。それでも視野の欠落によって、眼はみずからの底へ枯葉までみようとしているのだ。ふゆまえのさいご、おのれを散り敷く落葉樹のように、とおくへ刺さってゆく二重を、たてながとなりゆくまなざしがまねる。
 
めぐすりは視ることに聴覚を容れる。それでモノの恍惚がさらに譜へ分布してゆく。中心の分岐。からだにある円が障られて、すべて楕円へかわろうとしている。そんなふうに生のいくらかがふえる。
 
 

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2014年10月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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