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まえにかかえてあるくしかないものがあって、それを、すすきたばとしよう。ものすごいゆうばえのあぜで、だきかかえたそれらにより、かおをぎんいろにけしたひとの、あるく無名がおそろしいとしよう。かかえるものの、うすいおもみにせすじがそって、あるくすがたのこころもとなさだけが、むねへただしくせまってくるはずだ。
ぐうぜんを待ちはしない。萩原さん、わたしは写真をとるために、じぶんのなにかを待機させ、ひそかにみがまえながらあるいたりできない。きっとゆききしている場処に、あらゆるものの出没をゆるす、よゆうがないのです。じぶんをのみこんだそらを採取する、瞬間の才覚すら欠いている。
ところが、すすきたばをかかえることがみがまえとなり、前方のみえなさをあるくひとは、とられたとわからないまま、からだのたましいを写真にとられてしまう。身の肌がうぶげでひかるやさしさ。だかれると手折られるとがひとしいと、ねどこでなげくだろうおくゆき。あれらが日へのびている。一生にかかれたもので、《うづゆるやかにわれを殺めよ》の下句だけが、おのれへの謎の訓戒として、ただ創造を縛りつくすことがありうる。
どこからがはだかなのかと、ずっとかんがえてきた。ひとりぐらしのへやへかえって、あかりの紐をひいたむかしなら、はだかだろうか。軟骨つきの柑橘類(蟹のことだ)をむしっていつもおなじ幾何学にまみれるゆびも、はだかだろうか。なした作用をみずからに反響させる無防備にこそ裸性があらわれるなら、すすきたばを嗅ぐようにまえへかかえ、かおをけされてあるくだれかれの秋も、みなはだかだろう。もういちどあるきの絵巻がすすきへはいってゆくためだ。
身の幅にのびている前方を道という。ならば前方をかかえているものでけされ、身の幅すら覚束なくなったあるきは、道のなさをゆくしかない。それなのに、足はゆくべきところを知っている。すすきとともに、すきまへのうつむきとともに、わかっている。そのはじらいがうつくしい。