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不足のほうが不満よりもことばとして断然うつくしいのはなぜだろう。不満が欲求の心情にかかり、不足がたんなる量示だから清潔なのはいうまでもないが、それだけでもない。
コップに半分ほどそそがれている真水をかんがえてみる。水面はとうめいな容積のなかのひらたい判別となって、みらいにむけての中断や諦念をしずかに水平化している。不足がまだ水のそそがれうる余地をさすのか、水がそれだけしか存在していないそこまでをさすのか、よくわからなくなる点が、いわば幻惑なのだろう。つねに状態は水銀柱のように、うごくべき推移の中途だけをしめして、そうした時間性が容積のなかに無色無魂で定着している。
不の接頭辞ある漢語とくゆうの魔術もある。不幸であれば幸の全否定ではなく、幸の字のあるぶんだけ幸をにじませてしまう原理だ。ところが不足では「足る」から文字どおりの「足」へと身体幻想がかたむきだして、足ではない足のうつくしさのようなものをおぼえ、こころがさわぐのだ。そのちいさな足はコップの真水をふんで、わずかに水面をゆらしているのではないか。西洋人ではないのでこういおう、天使性ではなく、いわば観音性が不足へおりて、ふれている。このときの量そのものがむしろ観音なのだった。
水平だけにむけてあるいていればさほどかんずることはないが、たかさをめざしてふみしめられてゆく「のぼり」には、よりふかい体感の、分布的途中がある。じぶんはおなじたかさのものから発せられる等高線の一部であり、気温ではないものを、ひろいのに柱とみなされた空間のなかでただ上昇させている。孤立ではなく、なにかをひきつれる相関となるのは、じっさいは水平から身をひきはがしてゆくこのときといっていい。こじきとはこんな体感だろうか。
丘をのぼりきるとくるしい。かなしいものが、それもことさらひくくみえて。
これがなんの優位性でもないことは、いちばんたかい位置にこそ不足があらわれると思料すればとける。
水洟の高まりゆくや藻岩行