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33 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

33のページです。

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生への意気阻喪が壊滅的にすすんでゆく、それでもひととひととがせつなく対照される、「ほぼ風景だけの」幻想譚の奇蹟が、七里圭監督『眠り姫』だった。視聴覚の清澄化をうながされながら、山本直樹―内田百閒と、オリジンの系譜もたどれる。そのなかでじぶんの「気配」にたいしてのみ「声優」をつとめた西島秀俊の、発語中の「咳のうまさ」にひときわおどろいたことだった。
 
円山のイベントで壇上の監督にいった。いつも主張するんですが、放哉の《咳をしても一人》、あれはウソです。ほんとうは《咳をすればふたり》がただしい。咳をすれば、そのときにじぶんのうえで作用主体と作用客体が分離するでしょう。じぶんがぶれるんだ、ぶきみに。映画『眠り姫』の離人感覚はだから、咳の必然なのです。
 
きのうは詩集を読みながら咳きこんで、中空へひかる水洟をとばした。《咳をすれば、ときに三人》。このひとりトリアーデにおもわずわらってしまう。へやのくうきは冬にはいった。
 
弁証法ではなく、暗示―明示―提喩のトリアーデこそが対人にさだまった謎だと、今年屈指の詩集『シアンの沼地』で高谷和幸がつづる。かれは「とける人世」を知っている。そのうちなにもかもが鳥籠ではなく、あずまやに似てゆくだろう。
 
しきりに気の合う三人であるいたときがおもいだされた。むかしは男ふたり女ひとりが主だったが、やがて女ふたり男ひとりへと逆転した。ワルツであれば「けっきょくはすすんでいない最少円環」がめまいをおこしてかさなる。四拍子系よりつよい、数のもんだいをのこす。といってもそれはとらえかえせば事後のひかりなのだ。だから一対一の誘惑関係ではなく、まわる均衡のまま三人であるくことも、たがいを順にみおろす観覧車の車輛のようなもの、ひいてはじぶんたちではないたかみをつくりだしていった。東京の、秋の午後に。
 
三拍子の後二拍をうすめて、ことさら一拍めのベース音の余韻へ歌をのせてゆく。ジェームス・テイラーの「スウィート・ベイビー・ジェームス」は三拍子に聴えない三拍子の傑作だった。その奏法は、月下の浪のみちひきのなかでほほえむ定常を目にしておもいつかれたのではないか。それでも手の範囲にあるあんな発明がみんな去ってしまった。
 
 

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2014年11月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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