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からだに傷のあるときは治りがおそくなるから、コンニャクを食べてはならないとむかしはつたえられたが、からだのなかまでは知るところでなく、かたちのうつくしさに惹かれて、しらたきを出汁で煮てみた。夢のようなわだかまりがもりつけにあらわれた。むろんおなじ眷属だが、糸コンニャクではかたちに恨みがあって、だめだ。
しらたきの旨さは、もとの芋からの出自すらさだかではなく、すがたが食べものに似ず、さらにそれじたい味のしない心もとなさにあるのではないか。食べた気にさせないものに舌がたわむれて、そのおもいを噛みつぶすと、糸のかたまりがこまかにほぐれて、出汁があふれてくる。しらたきそのものもすでに出汁をふくむのだが、およそ瀧を喫するとはこんな童女じみた箱庭なのだろうか。酒のすすみかたが、さくらいろになってゆく。
ものごとの眺めを食べるのが本懐なのだから、つぎはさらに束そのものをからだにくっきり容れるため、細切りの昆布もすこしあわせてみよう。華やかにするには、さいごの沸騰期に、ほぐしたタラコを落としていいかもしれない。出汁をのむ。それがおでん屋のひと碗にかなうだろう。
コンニャク問答では、問答そのものが妖怪的に人格化する。ひとは後景にしりぞくのだ。これがなつかしい。
休日の飲み屋。廣瀬純へ、ネグリのいう、革命含有率の指標「コモン」について訊く。独善でない詩をわたらせるために、公共財=図書館のレベルでない詩のコモンとは、(古典)詩にまつわる共通の教養なのか、倫理なのか生活なのかと。シネマのためにフィルムを撮ることをかたったかれは、即座にポエジーのためにポエムを書く長年の革命を同意したが、詩のコモンについては「むずかしいねえ」といって、したしくわらった。わたしはコモンとは場所や価値ではなく、いまや多島海のような形状イメージなのではないかと、ふとかんがえた。その「うかぶ多さ」がもつれて、しらたきが翌夕の眼底にあらわれたのだった。
しらたきは風呂場へもちこんで、それで肌をあらうものだ。子どもをひかるまであらってあげたい。できないから、食べるのだ。それでしらたきを食べる生の部分性に、すこし全体が覗く。