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あたらしい感情を、まったく喜怒哀楽をはなれてつくることは、できないかもしれない。あるとすれば哀愁のあたらしい微分のしかた。まんなかにこそ、さけがたい必滅だってある。ひたいへ円盤をのせた最果タヒの詩集は、やわらかく足踏みしながら、そうつげる。
しおれてしまう系のひとらに、もう当面は紺青がやってこない。そらにも衣服にもひとみにも夜にさえも。雪上の碧空をおもうことなく、いまごろの当面はくらく予感させる。この「当面」というのは、ぼやけた時間の、ひとつの顔だ。それにちょくめんしている。おなじ息で。
だからへやぬちにちからの分散もひつようで、かかわりを断ってみせるとつみあげたその他おおくの詩集の塔が、寝床からの別方向を、ほそいゆびでさしている。さきに夜空があるのか。あそこへ行ったな。だが、ゆかなかった。
しおれてしまう系のひとらに、ものすごい青のとりかぶとが群生していた。ひとつまえの当面。去るしかないところが、たとえ眼前でも、それがかたわらなのだ。かたわらは、其処としてしめしえない、あらゆる過程。すごくふえていて、その数にはどきどきする。視たことを、視たじぶんではなく視た場所へただあずける。そんなあるきのよわめかたで、しおれてしまう系のひとらの「おそ秋」がきえかかっていた。その消滅の寸前は、けれど虹に似ていないだろう。
そうだ、寸前のくうきがけされて、顔へ当面の円形がふれてくる。そのひとつがいまも『しおれてしまう系のひとらに』。あたらしい感情はエッジをとがらすようにおもうが、まるくなじむものでむしろ全身をつつみたい。むろん顔だけの優位をくずせるのが全身だと、深夜の回廊でステップの練習をするのが、からだの形骸だった。ものかげから、みていた。
あのときは若さへ行ったな。だが、ゆかなかった。