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36 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

36のページです。

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「い」と「ゐ」は上代においてはそれぞれべつの発音だった。ならば、「ず」と「づ」はどうなのだろうか。ほんとうは水を「みず」ではなく「みづ」と発音したい。かたりおえて舌のまるまった余韻から、とうめいがしたたってゆく。あかごの記憶。くちをひらくかぎりは、とりどりのモノをめぐりたく、みづならばそれをさらにじぶんたちの消去剤ともしたい。やがてみなでみづつくかばねの、
 
つよいかぜで黄葉がひといきに散り、木々のおおくがはだかをあらわしたかわりに、うごく落ち葉の絨毯が、妖怪めいてずるずる路上を這っている。かわいた音の、かわいた幽体。匍匐前進する一切にあわれみをおぼえるのだが、はだかになった木々は、なくなった過半のおのれへ、みづのようなものを充填させ、さっぽろのぜんたいが、いまやふしぎな湖上のようだ。ないみづがゆれて、ないみづあかりがひかりの縞をなげかける。すでにこな雪が舞ってしまったが、はつゆきまえは、からだにも前後のおぼえをつよく植えつけられる。まえがふえ、うしろのへるからだが、おもみを欠いてただ移ってゆく気がするのだ。と書いて、「うゑ」と発音したい、「まへ」と発音したい、ああ、
 
ようするに、コーラスに影までくわえて、ひびきをふくらませたいのか。
 
となるとルフランは強勢か褪色か。両方あると、小山伸二の詩集をよんでおもった。むしろルフランの本性とは、そうした二重性のなつかしさかもしれない。きえてゆくものが、つよくきえてゆくときのよわさ。きえてゆくものが、よわくきえてゆくときのつよさ。それまでのうたをささえながら。
 
わたしのくちは在りかたがあまく、くちづけにもたりない。ルフランもふくめよどみなく意味の影をながすが、鬼哭にはいたらないだろう。おおくのくちも、しずかにしんで、そのままルフランのなかへきえ、鬼哭にはいたらないだろう。わたしもおおくも、なにかにとなりするその他で、それぞれをふくみ、ふくまれる。地上のルフランさえ鬼哭に聴えても、鬼哭にかかわらない内部性なのだ。それがはだかの木々に似ている。(似ている、)
 
ルフランはきえさったものへの類似だろう。
 
 

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2014年11月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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