37 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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以下はまず嘘を書く。
 
中国で「福」とは、妖怪の一種で、そなえものほかにとりついて、まどろんでいるひかりなどを指すという。兄の「禍」とならべば、たちまちたがいのあいだに縄をあざなって、樹木の幹などをぐるぐる縛り、枯死にいたらしめる。それならば禍のみのしわざのようだが、枯死にむかう樹がげらげらわらうのが、福のくすぐりによるのだった。かれらの縄が風のなかに舞っているすがたがよく見られるのが、雲南あたりだともいう。
 
兄への執着でもおもわれるように、「福」はさかさになりたがる。「福倒了」と「福到了」とが同音だというのは、さかさまというありさまに、すでに福がやすらっているのをあかししている。図体がちいさいからそんな転倒まで起こるのだが、さて福は幽体にすぎないのだから、そのもののおおきさなど、はたして測りうるのだろうか。コロボックルほか小さ神ぜんぱんにもいえるもんだいだろう。
 
人体では福は結節点にあらわれる。じぶんの胸のまえでにぎりあった左右のこぶし、くるぶし、ひざなど。あくまでも伸びようとする人体に停止をかけているのが、そこにひそんでいる福だと気づく者はすくない。いっぽうで福はくぼみにもあらわれる。腋、ボンノクボ、おんなであれば秘処にも。もともと影のなかに場所をひそめているそれらだが、その色がことさら白く、触りがすべらかであるとき、福がこともあろうに、憂=うれいとからみあっていると気づかされる。もちろんおんなのうつくしさは、うれいがどれだけしたたっているかによるのだった。
 
図像的な協調もある。福が井戸のかたちをしている(福井)。福が島のかたちをしている(福島)。なりうるならば水ととけあって、おのれをうしなおうとするのが福かもしれない。だからさいわい=幸とも婚を成して、その幸福はすがたをなくし、くうきのように、たとえばならべた白菜のてまえをただようしかない。
 
白菜を立てて観音ほのかかな
 
 

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2014年11月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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