38 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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なかなか写真うつりがいいじゃないのと、新聞を東京でうけとったつれあいから、メールがとどく。そう、その掲載写真なら「じぶんに似ている」。
 
写真うつりのながいひとならニシワキさんだ。草食獣の脳髄がきらめいているそのすがたから、草木そのものにもながい情があるとおもわせて、此世ばなれしている。その顔がしずくしている決まりの一枚がないか。もっと木目がみたい。写真うつりのぴかぴかなひとは猥映像でのローションプレイのようで、ひとの美観、その未来がサイボーグへちかづくと不敵にしるす。その平面性は立体化する。美観にまつわる建築が可能性としてうつっているのだ。
 
写真うつりのあおいひとなら、たとえばジョン・レノン。煤煙のもとで育った幼年がおおくの楽想をあおくしている。そのそんざいの屏風がまるごとうつしとられて、だから眼鏡が顔の必然ともなる。かれの顔写真なら時間的なので箱のように「ひらく」。
 
わたしは知りあいのいくらかの女子とおなじで、写真うつりがさだまらない。ほんらいはふきつなのだ。代々の洗面鏡は、うぬぼれ鏡だった。そこからじぶんの映りもまたあおく、まなざしがふかいとおもっていたのだが、そんなふうに撮られた写真がほとんどない。『イマジン』のジャケットのような写真がないのだ。精悍に語る、とキャプションされそうな勢いで、語る手がうごいている瞬間をよくぬすまれる。撮影者が対象をみるうちにイメージを固定されるのだろう。こんどの写真も顔といっしょに手が語っていた。
 
「わたしでないこと」がわたしなのだと詩に説かれる者は、みずからの像をおもいえがかずに、目にするものの反照のなかに、じぶんの逆算がただあるとかんずるだけだ。樹木のもとに移ればそのすがたが樹木の欠性だし、ひかる窓辺へ移れば、そのすがたも窓辺の欠性だ。けれど、いっさいとともになびいてしまうとおもわせながら、そのそんざいだけが着色されていないとかんじさせる距離がかならずある。そこでは「似ること」「似ないこと」にもはや意味がなくなる。
 
わたしの写真でつたえられるものが、まだある。毛だ。頭髪が火事をおもわせてけぶり、くちひげが語りに迷彩をほどこしている。ところがそれらの毛はケダモノからもちだされたもので、だから不細工の質がふるい。それが、ふるいものを掬いとるまなざしによってのみ愛着される。この者はどこから来ているのか問いかけるものであれば、そしてその答が空間的になるだろうと予感させるものであれば、たぶんそれがわたしの良い写真だ。
 
 

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2014年11月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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