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39 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

39のページです。

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五講目の授業がおわり、校外へでると、北十八条の路上は、すでに厚みをたたえた雪をつんでいた。その夜気にもしんしんと、雪がふりしきる。前方のひかりがぼやけながら割れた。下校する女子学生がともだちに耳打ちする「根雪になるね」の声が、ふる雪どうようにほそい。
 
雪の根があるのなら、さらに雪の幹があり、雪の枝があり、雪の葉もあるだろう。雪の幹がくうき、雪の枝が風のちからだとして、おそろしいのは雪の根と、それにふりつむ雪の葉が一見おなじものであることだ。そんなものはしょくぶつのぜんたいではない。根がただ葉を吸着して、やがてはすべておなじもののうずたかさへなってゆく。幹と枝はそのことのなかへきえている。これからの数か月、指標が同一性となり、そこで時間をつくりあげるために、降雪に減殺されたひとのからだが、ただみえがたさをゆきかうのだ。
 
ふつうの根は縦横にからまり、編み籠や万指の型となって、なきながら地中をつかむ。そのつかみの一体が、さらに根の伸びを無限にかぞえて、根の国をかこう。このかこいのおくゆきが、くらくひかるようにうつくしい。
 
ところが根雪はたとえば路肩にへばりつく寝床のうつぶせであって、そのなげきの背中にあろうことか雪の葉を負う。はじめはきらきらしていても、すぐに重しの刑となる。雪のふるときは結晶形がおりるのだが、結晶がこわれても雪にみえるのはそんざいの刑罰だろう。よく観れば凍て雪と、そこへふりつむ雪はちがう。ちがうもののかさなりが即座におなじ堆積となるなら、婚というものがひろくしんでいることになる。
 
ふる雪が根雪をてらし死んでゆく須臾が、北のよるのかわらぬ楽章だ。それが数日つづくこともある。むろん音のないままに。ごくまれにしずくするときもあるが、降雪はけして音をもたず、ひとの耳には、ただ風――枝の雪がむなしく出没する。
 
 

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2014年11月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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