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鼎――鼎立が、立法・行政・司法のようなものだとはおもわない。その本性はむしろ出没だろう。
たとえば対談記事なら、かならずふたりの応酬となる。それがことのほか単調だ。いっぽう鼎談記事ではだれがどの順番でくちをひらくかで不測をおびる。いつもこころ惹かれるのは途中からまったく喋らなくなったひとりだ。のこりふたりを聴きいっているのか、「そうはおもわない」を言外の磁気で放っているのか。きえているのに居る、そのけはいに、空間そのもののうつくしさをかんじることもある。
三人でいると、うちのひとりがみえがたくなるのが、この世のさだめだ。ながめはいつもそのようにある。くうきと風と雪の三人。くうきのみえがたくなるのがわるい日で、風のみえがたくなるのが良い日だという法がつづくだろう。そこを眼のきょろっとしたむすめが、黒髪に雪のまだらをつくってとおりかかる。授業で見知ったひとだ。かなえさんとよぼう。かなえさん、のこりふたりがきみの背後をあるいてますよ。
三本脚の丸椅子のもどかしさ。すわるじぶんがみずからの両脚で安定をつくり、丸椅子をじぶんの一部にする参入までもとめられている。うごかない一輪車のようなもの。「そうはおもわない」が尻からはなれない。
むろん「そうはおもわない」はおおくの日常でいわれない。だまっている。バートルビーの「しないほうがいいのですが」に似て、ないものの潜勢力がひらめきだすのは、ふきつなのだ。「する」「しない」に先行され、「しないほうがいいのですが」がみっつめにひそむ発語だ。ことばはすぐにかわるだろう。「しなないほうがいいのですが」。
詩は書いたその場で、書いた時間とひとしい時間でととのえ、それでおわり。ととのえのないばあいすらある。後日にはもちこまない。推敲と、日の推移とをかさねるなんて、詩にたましいをとられるみたいで厭だ。みなおして駄目なら、いさぎよく捨てるだけ。
このときも「そうはおもわない」、その三人めがまなかいの奥へきえてゆく。四の機能する「こそあど」の例文みたいだが――あの消滅をにじみととらえて、なにかこの悔恨のようなものをどの次元かへみいだせないか、しなないほうがよかった、そのあかしに。