41 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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あらゆる表現や哲学にまたがり、無機的なもののもつ性的誘惑を目指して登攀してゆくペルニオーラの著作をよむ。サイボーグの美観が諸学にならびあって冷ややかな壮観だ。ところが著作と直面しているはずなのに、よむわたしが次第に作者からかぞえて三人目となっていった。わたしの直前を別の者が文脈となって、著作の文脈をたどっている。わたしはといえば麓だけをつづけざまによぎるだけで、べつの空をつねにみあげていた。
 
発声は吐く息をともなう。それにたいし書字行為では書字分節ごとにたぶん息がとめられる。それらがすべてではないか。性交でも吐く息が支配的とおもえそうだが、じぶんのからだにふれあう相手のからだを、じぶんのはだに書きとめつつさらに息をとめる、書字のすきまがかならずある。おもうことはえがくことなのだ。このみえない対極が性交の奥にある二元性をささえ、そこに生気論が脈打つ。むろんささえているのだから、ちからがあり、ちからというかぎり、それが特別だとわたしはおもう。生気論はいのちと同等に空間条件にもかかわる。
 
気に入る猥映像どうしは、つねに相似性をもつ。脱精神的なはずのそれを、精神的にのみうけとめるズレへと魅入られてしまうのだ。ものじたいはつかめない。無機性にまたがる同一性と、この生きるズレのおくゆきにある同一性とは、むろん性質がちがう。前者は分布化されるが感情化がなされない。だから同一性が差異としても算出されるが、その算出がいつも傾向的になってしまう。後者はおなじものがつねにほのめかすゆううつをともなって、動物ではない性のいとなみを、精神や音楽、ついにはなみだのかがやきへとかえてゆく。
 
にんげんの性交で発見されたこの人間的なゆううつが、合目的のハーモニーをなして、それが植物へさえのびてゆくのだ。すべては、ほろびるがつづくもの。まなざしもこの指標のうえにこそゆれて、猥映像が侵犯的にもってしまった精神性を請け合う。まなざしにある傷の感触は生気あるもののみにあって、サイボーグがどれほどまばたきして乾き目を克服してもそこへはゆきつかない。動物の痕跡をこのむことが植物の痕跡までもほりあて、この深度のなかを精神が遡上してくる。かくして肉でなしうる感激の時はすべて和解に似てしまう。「ことばの肉」においてさえそうなのだ。
 
このとき、なににむかって息がとめられているのか。「すべての差異はおなじ」「すべての同一性はちがう」といった分裂は、ひとまず呼気と吸気とをまとめあげる。ところがまとめあげられて、ぜんたいがただちに呼吸へと生きもどされる。わたしたちの竹――栄えあるかなしさは根づきかえし、竿たることをいつもうしなう。
 
 

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2014年11月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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