42 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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からだと手とのかかわりがさみしくないか。じぶんのほとんどの部位を手はさわれる。毛髪も性器も、あるいは腰をおろせばかんたんに爪先も。そもそもその再帰性がさみしいのに、もっとも見た目にあわれな油断のばしょ、肩甲骨の真下にあるからだのぬりのこしを、肩越しに腕をまげてさわろうとすると、上体がはげしくひんまがるのだ。からだのつくりあげようとするYの字がこのときむざんに折れて、みずからへの祈りまでくずれてゆく。
 
かんがえてみれば、ポーズが残骸に似る身の置きかたがもっとあるかもしれない。しゃがんでいるすがただって傍からみればなにかの失敗のようだし、樹の幹にもたれる背が、さむさのほのおで皮をめくらせているかもしれない。おとこの排尿のたたずまいも、なにかへのあこがれがゆっくりとじてゆくあきらめと映る。
 
それでわびしいときには性愛の映像をみる。ふたりあるすがたこそ自足するのが、ひとのさだめだろう。騎乗位によっておんなの寺院が建ち、背後位によっておんなの後方が極彩の浪になり、正常位によっておんなのゆれが川水を掬う桶となる。ひとのあらわれをとおりこして、ついには秋の井戸のみえるそれら画像があるのだ。
 
背ははらわたを圧しせばめ、いのちの延びをがらす状に分光する。それが陽だまりのぬくもりをおびて、前屈も反りも、せなかのただの前後とおもう。からだのそとなのに中のつく部位「背中」は、そこだけがからだのなかではなく、めぐりのなかにただあるのだろう。Iの字をちぢめさせとおざかってゆくひとの、背の中央へは、そのひとみずからでは孫の手しかとどかない。そのはしらの節を、さしかわす枝のすきまからまいおりた、ちいさな手のようなものが押しつづけている。
 
 

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2014年11月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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