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楊徳昌が死んだ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

楊徳昌が死んだのページです。

楊徳昌が死んだ



本日未明、眼を覚ます。PCを開き、mixi画面へ。
するとマイミクさんの日記の幾つかで、
《エドワード・ヤン(楊徳昌)死去》の見出しが相次いでいた。
衝撃を受ける。哀しみ、というのではない。
砂を噛むような空しさに一瞬にして襲われ、
「才能」にまつわる「世界」の処置、
それにたいしては深甚な厭世観にさえ包まれた。



僕の人生は「映画なんかどうでもいい」という疲弊に
定期的に彩られ、突然「映画真空地帯」に舞い戻ることが多い。
キネ旬で働き始めた90年代初頭なども
実はそんな映画倦怠期だった(最近もそうだ)。
何もかもが、自分の「リアル」感覚にしっくりこない。
とくに邦画新作で面白いとおもうものに当時行き会わなかった。
よく憶えているがそんな自分の逼塞感に風穴を開けたのが、
楊徳昌、それに北野武だったとおもう。
「アジアンリアル」に最も似合うのが「恐怖」だということ、
俳優の表情は不機嫌でよく、しかもそれらが風景と相俟って、
湿気のなかに多数性を形成し、それこそが映画的魅惑となること。
北野武の『その男、凶暴につき』『3-4X10月』、
楊『恐怖分子』が契機だった。
それ以前の侯孝賢と併せ、僕は3人を極東三羽烏と呼んでいた。
韓国のペ・チャンホを加え、四天王でもよかったが。
つまり変化が、アメリカやフランスの単体ではなく、
「極東」という地域で出てきた点に「状況のよさ」を感じたのだ。

『恐怖分子』はスタジオ200での限定公開を見逃していたのだが、
日本語字幕入りLDのサンプルが早くから手に入った
(そのLDが実際リリースされたのはなぜかそうとう後だった)。
当時は僕の周囲に、郡淳一郎とか暉峻創三とか筒井武文とか
筋金入りの「楊狂」が何人かいて、うちの誰かが
僕の気難しい資質に楊作品が合うと見抜き貸してくれたのだろう。
なるほど『恐怖分子』に僕は驚倒した。
真の戦慄が躯を貫き、
自分が眼という感覚享受器官をもっている点にさえ恐怖を感じた。
高橋洋のいうとおり、眼と脳が近すぎるという身体器官的配剤が
たぶん何か崇高なものからの「悪意」によっているとおもった。

『恐怖分子』について少しだけ。
医者-女優-不良少女-カメラ小僧-刑事の五角形。
作品における人物の配剤がそうした偶有の五角形と知れるのは
時空共有を根拠に偶たま人物たちの尻取りが起こるからなのだが、
いったん作劇によって張り詰めたその五角形の各辺は
さらなる悪意と偶然によって砕け散ってしまう。
暗い画面が多く、人物や状況の判読そのものの難度が高く、
それをパズルを解くように手許に引き寄せると
付帯的に恐怖までもが引き寄せられてしまう、という構図。
現実と幻想の境界も、故意に曖昧に設定されている。
しかも人物それぞれが悪相で、「感情移入」の手かがりすらない。
だから作中人物とともに、観客までが作品に砕け散って
ただ「恐怖」に染まる――こんな悪辣な映画がありえようとは。



楊は日本のコミック好きで、アメリカ好きで、映画と音楽が好きで、
大学時代の専攻はコンピュータだったという。
もともと「核」を数多くもっていた才能だったのだが、
それら多様性が彼の創造(想像)力のなかでスパークしていた。
しかも「冷たく」――。
倦怠の温度が冷たい、という感触が一時期、楊を
「東洋のアントニオーニ」という比喩で包んだのだろう。

「画面の冷たい」映画監督には比定不能の才能があるとおもう。
吉田喜重、大和屋竺、ジョセフ・ロージー――
エドワード・ヤンは「都市=台北」の映画作家だった。
当時の台北は幾何学的に気味悪く増殖していて、それを
楊映画は作品毎に写しとっていて、冷たさには磨きがかかった。
続けて無字幕でみた『海辺の一日』『青梅竹馬』で
そんな確信がいよいよ深まってゆく。どこかがヤバい。
たとえば侯孝賢映画の最高の瞬間は
不機嫌な寡黙をかたどっていても素晴らしい光に包まれている。
このときの「時間のかけがえのなさ」が催涙的なのだ。
ところが楊の場合、『青梅竹馬』のクライマックス、
台北の巨大建造物のファサードに遠くから投げかけられて移ろう
クルマのヘッドライトでも何でもいいのだが
その恐怖感覚はそれ自体にのみ奉仕する空しさから離れない。
だから僕は、楊の映画を、
ウェルズやニック・レイに結びつけ、
認識の安定的な見取り図をつくろうとする言説を嗤った。
これが僕の「カイエ」放逐のきっかけのひとつだったろう。

いずれにせよ、アジア大「風景論」が再度胎動しようとしていた。
才能もまた後続する。
瀬々敬久、(初期)三池崇史、キム・ギドク、
ホン・サンス、ロウ・イエ、ジャ・ジャンクー――
たぶんこの時期に真摯に映画レビューを続けていたことが
僕の使命というか、幸運でもあったのだろう。

『恐怖分子』にはたぶん映画史的余禄もつきまとう。
映画を細分し、オムニバス状態にし、
その各項を微妙に連絡させるという作劇が
そののち、王家衛、(時制シャッフルの)瀬々敬久、
ホン・サンス、さらにはホラーの清水崇などに続くことになるが、
そうした流行の普及者がたしかに王家衛だとしても、
嚆矢となった創造力は楊の分断的映画組成ではなかったか。
この傾向がたとえばマンガでは
福島聡『少年少女』、志村貴子『どうにかなる日々』、
そしてとうとう、浅野いにおのパズル型作風に結実する。
現在の日本の才能でまず楊型と指を屈するべきなのがこのいにお、
次が光に対して繊細極まりない映画作家・風間志織だろう。



回顧する視線の時制を少し以前に戻す。
エドワード・ヤンは『恐怖分子』ののち圧倒的な大作を仕上げた。
『クーリンチェ少年殺人事件』。
その仕上げは調布の東洋現像所でおこなわれ、
秘密の初号試写があった。
上映時間は4時間を超えていて、まだ字幕がついていない。
しかも試写の開始時間が何かで遅れれば
もうタクシーでしか帰れなくなるリスクつき。
四方田犬彦さん、宇田川幸洋さん、暉峻、僕、
それに黒沢清もそこに立ち会っていたのではなかったか。
そこで垣間みた楊の姿はスピーディで神経質で非親密だった。
あ、この「非親密」と「親密」との脈絡こそがポップの要件だ、
というその後の僕の言挙げは、
楊の映画から導かれた発見だったのかもしれない。

この作品の詳説はしない。
徹底的に多数性で暗闇を駆使した画面のなか、
悲劇が生ずる胎動に完全にもってゆかれる映画だといえばいい。
時代をヤンの子供時代に戻し、台北のアイデンティティを
『青梅竹馬』に継いで問うた映画でもあった。
全長版と短縮版、どちらがいいか、
評論家仲間でケンケンガクガク戦わせた議論も懐かしい。
僕自身は作品に数々「物語の不可侵な袋」のできる
短縮版の「謎めいた」感触をむしろ偏愛していたかもしれない。

この作品は東京国際に出品された。
当然、ヤンは来日する。
当時僕が在籍していたキネ旬では僕を企画と司会にして
「香港台湾電影人列伝」という
アジア映画人の連続インタビュー企画を立ちあげた。
ヤン、王家衛、ツイ・ハーク、アン・ホイ――
インタビュアーは宇田川さん、暉峻、筒井さん、時たま僕――
この頃はキネ旬で働いていることに意義を感じ、
僕の精神状態もすごくよかったとおもう。

宇田川さんがインタビューしたヤンは
親日家らしく機嫌がすごくよく、かつ聡明だった。
極東映画人、とくに大陸のひとは
できあがった映画からこんなことを考えているだろうと
「見込み」をして質問すると空振りする場合が多い。
そのような批評意識が国内で育っていない例が多かった。
ところが何事にも意識的な楊には
このような齟齬がまったく感じられなかった。
何というアタマのよさだったのだろう。

最近、『ヤンヤン』で人の後頭部ばかりを写真に撮る
ヤンヤン少年の姿に
ベンヤミンの思考を結んだ文章を読んだばかりだった。
学識ボーダレスの楊ならベンヤミンを愛読していた可能性もある。



エドワード・ヤンの映画人としての不幸のひとつは
この『クーリンチェ』をカンヌに出品して無冠だった点だろう。
もともと判読性の低い画面のなかでの人物の多数性によって
人物が見分けられず、
審査員たちが内容を理解できなかったのだった。
90年代の最高傑作という評価は
僕らラディカルな映画好きでは最初から定着しているのだが
この評価が世界大に定着するにはあと10年は必要かもしれない。

ヤンはカンヌを始めとした国際映画祭での栄誉に固執した。
だから賞撮りのためやがて作品の複数性を緩やかに解いてゆく。
『カップルズ』『恋愛時代』『ヤンヤン 夏の想い出』、
人物の運命のブラウン運動的な衝突が洒脱で笑わせ、
それぞれが大好きな作品だったが、
とうとう楊は「最もわかりやすい」『ヤンヤン』で
カンヌでの最優秀監督賞をゲットした。
それで気が抜けたのか、以後はもう映画を撮らなかった。



楊が国際映画祭での栄誉に固執したのは
彼に先立ってそれを手中にしていた
侯孝賢への対抗意識からだったろう。
もともと侯と楊は親友だった。しかしそれが
侯主演、楊監督の『青梅竹馬』で金銭トラブルを招いてから
二人は犬猿の仲になってしまう。
二人が共有するスタッフも右往左往で混乱した。
この二人が90年代も共闘していれば、
台湾-極東圏の映画も様変わりしていただろう。
そうならなかった。鶏が先か卵が先か知らないが
90年代中盤以降、台湾は深刻な映画不況も迎える。
そして楊は映画から離れ、殻に籠もったように
ゲームソフトの製作のみに走る。拝金主義云々の悪口も聞いた。
一方、侯の映画はますます変格となり、弛緩も生じ、
一部の彼のファンしか熱狂的に受け入れなくなってしまう。

僕は二人ともが不幸だと実はおもっている。
ジョンとポールの離反以上の歴史的打撃ではなかったか。
楊は映画分野に捲土重来をしるすことなく
癌を患って長期入院の末、アメリカでの客死を迎えてしまった。



僕は『カイエ・ジャポン』2号に変名で
長いエドワード・ヤン論
(『クーリンチェ』と『恐怖分子』を射程に置いた)を書いたのち
フィルムアートの『楊徳昌電影読本』でキーワード事典を書いた。
そののちの『カップルズ』『恋愛時代』は
「映芸」と「図書新聞」にそれぞれ8枚以上の作品評を書き、
『ヤンヤン』『青梅竹馬』は立教で授業をおこない、
これらについては講義草稿も残している。
つまり楊の作品のほぼすべてに付き合ってきたのだった。

僕のアジア映画作家論は、楊を支点というか扇の要にして
胎動してきたアジア映画の作家たちを論じるという着眼で
『映画のアジアン・リアル』という名で纏められていた。
この大量の原稿群は
詩人の稲川方人さんに預け、各所に企画を持ち寄ってもらった。
結果は惨敗つづき。僕の書いたものが難解だったのか
稲川さんの交渉力に難があったのかはわからない。
ただ、稲川さんがこの企画をもって歩き回るうち
世の中では「韓流ブーム」となり、
この要素を組み込まないと企画が成立しなくなりましたね、
と稲川さんにいわれた。
それを機に僕は「この企画、もうやめましょう」と彼に告げた。
急速に心が冷えたのだった。

楊は不幸、もしくは不吉なひとだったと感じる。
そして楊の作品解析に恐らく150頁ほどは割くことになっただろう
この企画もまた不幸、もしくは不吉だったと感じる。
楊の運命を僕ももらってしまったのではないか――
楊の訃報を知り、そうふと感覚したことでまた
僕もヤラれてしまったのだとおもう。――合掌

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2007年07月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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