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からだのどこかに脾臓があるが、それがどんなかたちかしらない。「うすいひしがただよ」とウソがいう。にくづきに卑の脾、にくづきに非の腓。からだにはからだにならぬものがなるほどひらめいて、うちがわもそとがわも心もとない。
詩集は連作をなして、間歇がどうひろがってゆくかがすべてだ。確たる着想がやがてうすまり、篇をこえてつながり、さいごにえられるとうめいが、そのままからだのまえともひとしさをつくる。二季ていどにまたがると、さらに生きてゆくからだが巻末へのこるだろう。むろん日々の連作がかんじん。ぐうぜんうまれた型をさらに追うからだが、それじたい獰悪な詩なのだ。それでもみつめあう肝腎の脇で、脾臓がくるくるまわる。まわるからそれも四角錐にみえて。
ただしくは免疫応答の場、と書いてある。そこでふるくなった赤血球を破壊するとも。犬は大量の血液をその脾臓にたくわえているそうだ。となると、ひとと犬のちがいは脾臓にもある。ちがいについてはいつもさわりたいのだから、犬をうらがえしてあばらをさすり、脾臓をみちびく魔法があってよい。
うしなわれれば、ほかの循環器が脾臓を代替するというのだから、もともとが痕跡のような内臓なのだ。ふるくは膵臓とのちがいすらわからなかった。くうきのなかへほそくカドをたてても、わたしたちには内蔵できないものがある、と脾臓のひかりがいっているのか。
それでも破壊された赤血球がこまかいひしがたをうかべて胆汁としてながれる。それがくろくなり、ゆううつをめぐらせる。ゆえに太古からある、ゆううつと犬のかんけいにも脾臓がおもわれているだろう。わたしたちのいるのは、内外のあいまいな、そんな星にすぎない。脾臓は臓器としての輪郭もよわい。それは脾索へとうすまってゆく。むろんこのかたちこそが自分への詩なのだ。詩は、あたまではなく、脾臓でつくる。