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かんがえるとは、はだかになることだ。まとった服飾を解き、ひだをひろげ、ずんぐりしたぜんたいになって、かんがえようとする対象の芯に、まるごと物質をおしあて、鼓動をわけあうことだ。あらわれてくる展開がみずからを折るのではない。かんがえはあらわにしたぜんたいのなかとうえとを、さいなむようにひびくだけだ。それは風にたわんでおわらない刑罰の刻々にも似る。
ならぶものみな裸木となって、それぞれのそのままがただかたちを生じ、枝のつながりが、さしかわしが、かんがえにあるだろう連絡をあおぐろく露出している。それは回路にみえて、しかしそのかたちのぜんたいなのだ。それでもそのかたちだけでしかかんがえられないのではなく、風にたわみ、やがては雪をいただき、おもさにあえぐことで、その場にあるみずからを、ならんでいる眷属を黙々とかんがえつづけるだろう。気温とはちがう熱をもつとは、そういうことだ。
おなじように、おもうことを澄ませるため、はだか身になれば、くびとうでの伸びているかたちが、目鼻の配剤が、ただかたちとしてかんがえはじめる。かんがえている部位の実際は、むしろ分け合われている関節どうしのひびきにある。はらわたが一丸となり、表面としかあらわれていないぜんたいのむごさをさらにおしだす。おおきくみえているあらわれが、ひりひりとちいさい。この凝縮がかんがえて、けれどもかんがえの一節一節がやはりかたちを分離している。やがてこのかんがえはもうろうまで得て、湯になじむ。じぶんのなまえとすら無縁になったかんがえが、ぜんたいであるもののなかを、ぶきみにしずくする。だれなのか。
きみのかんがえもしりたい。はだかのぜんたいをつくりあげているかたちが膚接によってかんがえるそのまるごとを、このはだかへともらいうけたい。