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したしさへの予感をおびながら、それをはばむ微妙な位置にふわふわしている、蛾のようなこどもだったとおもう。記憶はないが、家ぬちのくうきもいまよりずっと、蜜に似てねばっていたのではないか。うごきがたさのなかで、ゆれるもののぶきみをからだひとつで遅らせていた。
祖父母の家からもどってきて、つよい癇をひびかせた。うるさかったらしく、叔母によれば、これまた癇気のつよい父親だったひとが、ゆかに叩きつけたともいう。それでなにかを破損して、成長がおくれたかもしれない。
その父親は鎌倉に家を建ててから、帰宅がやがて疎になった。父にまつわる記憶がすくないのもそうしたわけだ。やがて父母の離婚が成り、会うことなく父は世を去り、葬儀にもゆかなかった。
真偽さだかでない妙な父の記憶ならある。床の間のあるくらい部屋。半紙を糊でつないだながい帯のうえに、父親の筆がちからをこまかく加減して這う。遅速の配分で結節ある竹がつぎつぎ林立してゆく。ひとふでから数本の縞がたわみ、それが竹群にひそむ不遜な虎ともなる。あんな魔法が理科系の身のどこにあったのか。おしあてた筆をふるわせて鯉の鱗をつくったり、筆勢をながして水面の皺を生みさえした。紙上の墨がこまい電気みたいに鳴りつづける。かたずをのみつつ一気呵成の刻々を追い、そんな背後の圧を父親が黙殺していた。
父がもういない中二のころ、ジャニスの「サマータイム」を聴いて震撼する。「泣くな」と唄う歌がむしろ号泣をみちびく。彼女の声と二本のギターのとりあわせ(ひとつが歌謡曲調、ひとつがサイケ・ディストーション)が音場をゆがませ、音楽そのものが危ない。直観的に父親のあの日本画もどきをおもった。父性一般にたいしてはずっと変な反射をしていたが、まさかジャニスから現実の父がよばれるなんて。
かえりみれば父からはふるえをずっと訓えられていたのかもしれない。それもまた生の要件だろう。