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この連作をずっとかすめているのは、もちろんからだへのさまざまなかんがえだが、それほどからだでもないのだ。むしろあったのはうつわとひかりの関係だろうか。そのものよりも、そのものがめぐりとつくりあげる関係のほうがうつくしいと、ここのところずっとつづってきていて、うつわのおもてが照っていれば、そのなかにもひかりがみちているとおもうことを、わたむしにもみうけていた。
しら糸とも雪ともつかぬ蝋をかるくつつみ、みずからのすがたをうしなうそれらは、雪のようにはてのひらへのらない。それらは個別ではなくただの群飛で、からっぽをあふれさせるうつわへと松ばやしのひかりをかえる。ひとつの個体がうつわになれば、それら無限の浮遊も、おとのないうちがわをつくらずにはいない。
あるところがなんらかの霊気でとじられている。そのあかしのため、かすかであってもいつも反響が測られる。そうしてひとは耳をたてるのだが、その頭部のけはいが関係へのうつわになっているとは気づきにくい。きこえない。さわろうとするけどさわれない。どだい、ふわふわしていても、雪虫とひととでは、じかんの単位がちがい、ひとはただおくれる。そこをやがて雪がふりつむ。
かわりに雪虫はきえるが、しろうとではそのきえかたすらわからない。きえのなかになにかがのこり、松ばやしを背にしたわたしは、「ずっときみを自殺しつづける」。
そういううつわだ。だんだん痴愚になる。こんやは痴愚鍋で、とうふにもうらがわのあることにおどろいたりした。