47
47
過去はからだのかたちをしている。うすやみでさだかならずうごくところに、すでにして過去とくゆうのぬくもりがあるし、往時を想起するさいにもその想起におんなめいたくびれがひらめいたりする。いずれにせよ過去は停められた時間、その一点の像ではなく、それじたいをもれでるように、うつくしくこわれてゆくものだ。これがおおく開花とすらまちがわれるけれども。
それでもうすぼんやりうかぶ過去の像があって、そうした像の典型に、ちかづいてゆくY字路などをおもうのは、道のうちとりわけY字路がむすびとして、ひとのからだの各部にもみうけられるためか。かたちの岐れのみえるところにこそ視線がたちどまり、恍惚としてゆきさきをまよう。その時期なら風以上のものもふきすさぶ。こしかたにえらばれた一路へと、過去そのもののほそまってゆくあのながれが、まるごとからだのさみしさに似てしまう。からだの各部にも想起のきえてゆく延長がしくまれて、ありどころをうしないつづける。こうしたぜんたいと部分とが、もろともに過去だ。からだという媒介項を置けば、おしなべて過去とはそんなまるごとなのだろう。
こころのなかにうでがある。うでがうごく。
系統なき系統はそのまま視線の質でもある。なにかにまむかうためにあたえられた視線が、みずからの底をかたちづくって、釣瓶のようにどこかのふかい井戸水を汲む。まむかわずそんな再帰となるとき、視線がそれじしんの系統まで粉砕してしまう。まなことたまごの類縁がそこに顕れる。なんなら、くだけ散った殻は方向ではなく、星座になりうる点在しかうまない。《天の如し》だ。
このことがなにかを物語りにしてゆく系統ではなく、ひろいあげて得た静止をゆらしつづける掌上のせつない系統をよぶ。あぶらがひかる。ここでも過去がからだのかたちをしている。眼と手をつなぐものがからだでしかないためだ。あるいは過去はついに帰属へとゆきつかない、ただの持続のかたちをしている。