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眼のなかに眼のあることがうつくしい。ときおりそんなむすめがいる。このばあい左右の眼はそれぞれ二重性だが、たとえばすずしさのかがやきに淫蕩などをかくしているのでもない。ただのおなじものがひとつの場所にかさなっているだけだ。そんなまなざしのありさまに、その無駄をきれいとかんじる。むろんかさなりは乱反射ともなりえるから、そうした眼ならば視線すなわち方向さえかすませるだろう。世界をながめるのではなく世界と過剰に同期するかまえが、ふえたことでうすまった眼にも忍びこまれている。
あの鳥はみえるのか。むろん鳥影ではなく時間としてみえる。
鳥のあしあとから漢字を発明した蒼頡なら四つ眼だった。眼のうえのひたいにも二対、眼がならんでいた。その四つを縦に圧縮してふたつにまでへらすことで、眼のなかに眼がうまれた。だからそのひとみは、「一致がかすむ」ひかりのさだめをもしたたらせる。
眼のなかに眼のあることは、ひとつの角度のひとみが、べつの角度だったひとみを、おなじ場所へ分立させる矛盾とつうじる。ためにそこで過剰なものが時間ともなる。むろんそれはたんなるかさなりとはちがう。しぐさを刻々と分岐させるものへと放埓にのびている。あの時間とこの時間とをむすびあわせる架橋が、もともとうつくしいしぐさには畳まれていて、この印象が倍化したおくゆきの眼にも彫られている。それで水あかりのみならず、こだまにも似る。
ここで語られていることは、つづめればかなしみの物質性かもしれない。そのクッションのむすびめもみえるのか。むろんクッションではなく時間としてみえる。