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読むおんな、という画題がたしかにある。よみすすめる本、その頁からの反映をうけて、わずかにつねとはちがう、うつむきがちの顔がほのめいている。予感めいたものが描出の核心をただよう。そこへ文字どおりの文字づらをおもう。むろんなんの本をよんでいるのかは秘される。あの顔と髪が、分離であって分離ではない。むしろなにかに囲繞されるのが、なにかの顔といえる。
からだならもともと放心している。動作の効果にこころくだくのではなく、みずから編む時へとしずんでゆくからだは、隙だらけとなってまとまらない。そうして椅子にすわり読書するおんながあやうい。その放心はこころだけをとれば不在のあらわしだが、からだに放心がめぐる再帰のときには、あふれるこころを川水にしてめぐらせている。からだは溝になって、そのすべてがひとつの世界の陰裂のようだ。
からだならもともと放心している。あるくすがたへにわかににじむ夢遊が、まさしくひとをひとに似せるのは、わずかなゆれによってこそ樹木が樹木とさだまるにおなじだ。めのまえからはるかへと雪がまえば、たちまちどこまでがじぶんかわからなくなる。からだのうつくしさもこの脱域にある。だからひとは猥画をこのみ、読むおんなの画題にひかれてゆく。
からだが顔に似るおんなと、顔がからだに似るおんなとでは、後者のほうが古代的だ。表情がすくなくてすむし、たんじゅんに反映的な顔のほうが、澄んだ倍音をたちのぼらせてくれる。その倍音がおんなの手におさまっている本を、本そのままにはしない。
おんなの顔は、それいがいを反射するためにつくられている。そのあらわれはいつもなら迅い。ところがなにごとかのため放心すると、顔が顔であることを遅れつづける。よくみれば世界は、濃淡よりさらに遅速で刺繍されていて、そうした経緯のすきまを、おもう顔がいつまでもほのめいている。