むかしの詩
はじまるみづのゆれをゆきかひ
ひかりのなかになみなみときえ
しびとのゑまふみらいのむきへ
むなしくあがくこのあをのかい
とどめるなうのしわふかくには
をととひうかぶしのまりあんぬ
しろこんれいのうたもをはんぬ
かみさりしひのふゆあれのには
かたみとのこるきせつよびごゑ
ねむりほつれたこころのかごへ
さすはなもなくけはいむらさき
ただしづかなるうすやみのゆめ
ふたつでをもてあかごろもさき
おもひでのそとこびとはあゆめ
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こんど水声社から出るぼくの『平成ボーダー文化論』は犯罪論、メディア論、音楽論、風景論などを中心としたサブカル系ノンジャンル本だが、収録評論のうちのひとつで、論脈上、自分じしんの詩を引用してしまったものがある。その詩篇が上。題名はない。
『昨日知った、あらゆる声で』を出すまえ、雌伏期の詩作で、詩からすけてみえる野心がはずかしいのだが、初出忠実性をたっとび、ゲラ校正でも削除しなかった。
完全押韻の十四行詩。字数=音数もそろえてひらがなの歴史的仮名遣いを駆使している。超絶技巧もあらわだ。日本語でのソネットなら、この形式しかないと詩作当時(ゼロ年代中盤)、きっとかんがえていたのだろう。各聯ごとに色彩がひとつ配されている。
たった十四行の詩の作成に、マラルメ的な推敲をかさねたようにもみえるが、そのへんはいまのぼくとおなじで、たぶんそんなことはしていないとおもう(詩作時の記憶がいっさいないので、断言はできないが)。というより、どこかにかるさがあって、手の難渋していない気配がたしかにつたわってくるのだ。そこが捨てがたい。「まりあんぬ」はジャックスの歌か、鈴木清順『殺しの烙印』か。
いまのぼくがよくなす曖昧詩は、この時点でも志向されていたのだなあと、若干の感慨が生じた。むろん、いまはこんな反時代タイプの詩など書かないけど。