杉本真維子・川原 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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杉本真維子・川原

 
 
【杉本真維子「川原」】
 
「現代詩手帖」12月年鑑号で評価の集中した詩集のひとつに、杉本真維子『裾花』があった。ただしその詩集には、「詩の被災」「意味の破壊」など暴力的な解読不能性を強調する評価が主流をなした。ところがこの詩集が創造するのはむろん愛着であって拒否ではない。つまり解釈(暗喩にたいするもの)が不全をしいられても、味読(換喩にたいするもの)については組織化がおこなわれるということだ。たぶんそれは詩篇内部に生起する「方向」と「感情」を読者が分有することで起こる。そのことがぼくの書いたものをふくめ言明されていない。これを是正すべく、以下、詩集冒頭詩篇「川原」を、実験的に、聯ごとに味読してみる。ただし「川原」が集中もっとも親和性のたかい詩篇だという点も顧慮にいれておくべきだが。
 
通路、が塞がれ、身長ほどにしか、心がな
い、日のなかで恐怖の種がわれる。蛍光灯
で焼けしなないか、ソファで溺れないか、
窓で迷わないか、
わたしは、だれなのか
 
冒頭、「通路」のあとに、すでに息切れしたように読点「、」が侵入するのはなぜか。詩篇を想起したときに疑心がもたげ、同時に決意が詩篇そのものを進行させようとしている呼吸がそこに顕れているのではないか。つまりこの「、」において呼吸と葛藤が等号でまず結ばれる。よって強調の「、」ではない。
 
「通路」の現実性はのちにでてくる語から事後的に確定されてゆく。「蛍光灯」「ソファ」「窓」――室内で見聞できるそれらによって、通路を生活動線にかかわる展開可能性とまず具体的にとらえてみる。それが「塞がれ」ているのなら散文的には段ボールなどの荷物が動線上に置かれたとみることができるが、むろん「塞がれ」そのものには抽象的な逼塞も印象されてゆく。
 
つぎの《身長ほどにしか、心がない》では限定性、不安の語調によって意味がつくられている。けれど試しに《身長ほどにも、心がみちている》と置き換えてみると、身体の計測可能な符牒のうえに心情がそのまま一致=充実していることになる。となると語調の不安を引き寄せたのは、そのまえの「塞がれ、」の逼塞感に、次の文節が呼応したためだ。哲学的な意味化が生起する。身体と心情が過不足なく一致する「まるごと」「むきだし」の状態そのものが充実ではなく、欠落や不快、不安と捉え返されているのだ。
 
こころと一致したからだに標的化が起こり、存在がフラジャイルな繊細さにゆれうごくことまで喚びだされてくる。「蛍光灯で焼けしなないか」――たとえば魚はひとの手でつかまれれば、その部位から体内にむけて火傷する。だが蛍光灯で「焼けしぬ」ことはありえない。ありえないことは了解されていて、「死ぬ」が「しぬ」とひらかれている。「ソファ」も身体をささえるものであって、液状を呈してひとを呑みこむものではない。ということは、詩の主体のいる世界は逼塞しているのに、歯止めのない「底なし」という二重性をもっているのだ。そこに「窓で迷わないか、」も成立する。窓辺からひらける光景も底なしで、通路が断たれてそちらに眼路が向かわざるをえないとき、外界にはがらす一枚へだてて魅入られながら、それが底なしであることで、がらすの干渉、隔離に規定性がなくなり、いる場所を迷う、といわれているのでないか。
 
これら一連の直前、「日のなかで恐怖の種が割れる」が、詩篇の感情を「恐怖」に固定することになるが、この文はズレをそのまま内包したように範囲確定が困難だ。「日」は日数の日なのか、太陽なのか。前者だとすれば、「日々の推移のなかで、潜在していた恐怖の胚種がほぐれるように発芽にむかう」となるし、後者だとすれば、「太陽の圧倒的な陽光をつくりだしているのは、ひかりそのものの破壊性で、それは恩恵と同時に恐怖をももたらす」となる。ただしのちに詩篇中にでてくる「闇」と遡及的に呼応して、ここでの「日」は太陽の意味を比率的におおくふくんでいたと事後判断がなされるだろう。
 
この第一聯では書かれていることばとともに、「書式」が感情生成をうながしている。一行二十字詰めの散文体で書かれだした詩篇が、やがて行分け形式に「分離」するのだ。「焼けしなないか、」「溺れないか、」「迷わないか、」といった生存不安の連鎖が、連鎖であるがゆえに「ほぐれ」を出来させる。それで「迷わないか、」のあとでついに改行が起こり、以後、詩篇は行分け体に再組織される。これは連打には余韻が要るという、詩篇主体のからだからの要請だとおもう。読点「、」のもつ間歇性導入の必然だろう。書けば呼吸が生じ、書かれるものが分離する――これがまさに改行詩の生存理由で、このことで恐怖から主体が救出される。
 
最後、「わたしは、だれなのか」はアイデンティティ・クライシスの定番となる自己疑問だが、それが手垢にまみれた滑稽味を帯びないのは、それまでの疑問形の連打による。最後の疑問文は、ちいさいながらも具体的な疑問形の連鎖の果ての必然として、文脈的に特異化、特有化されているのだ。この一聯のあとに「*」が入って、第一聯と二聯以下の断絶性が強調される。それはこの第一聯を、詩集全体のエビグラフ詩として分離しようとする意志がなかば働いたためではないか。
 
存在しない、ハンモックの
午睡でもいい。生まれた時刻までもどって
擦れる頭皮の、その熱の、
さいしょの突進を握って
   (光について
    尋ねられた)
 
午睡の理想の場所はハンモックだ。そこでは睡眠するからだが空中浮遊を同時に演じているとみえる特権性が組織される。だが、ハンモックは存在しないまでも、どこに架けられているのだろうか。前聯からは、室内にある午後のひかりの縞のなかに。詩文それじたいからは記憶のなかに(ハンモックは場所そのものに意外な遊戯的連絡性を付与する幼児期の触媒ともいえる)――これらが解答だ。これらの解答のうちの後者から、詩篇主体の最初時の「存在しない」身体記憶までもが俎上にのせられることになる。それが「出産時外傷」だった。
 
《〔…〕生まれた時刻までもどって/擦れる頭皮の、その熱の、/さいしょの突進》では、「突進」の運動性を純粋化しなければ、通常は、母親の産道をころげおちて此の世に顕れた「事実」が語られているとみるべきだろう(この見立ては暗喩解読というほどのものではない)。「頭皮」が擦れるのは、赤児の頭部にまだ頭髪が不充分だからだ。ただしこの世での最初の身体的記憶が、火傷、「焼けしぬ」ような摩擦熱だったとかんじると、にんげんには先験的な受苦が刻まれていることになる。この感覚が存在の本質で、産み落とされるときの受難が記憶として具体化されていなくとも、理知的にその総体的「突進」が「手に」握られることになる。このとき「忘れられた(=存在しない)脳」と、「手」とに連絡ができて、それで生きる身体が本当に定位されるのではないか。
 
この第二聯は、書かれていることの意味が収められないまま(しかも改行結節も意図的に法則化しないまま)、まるで産道を異物が落下するように運動そのものが「ながれてゆく」。カタコトが連鎖しているとかんじなければならない。この呼吸もまた書かれていることとともに把握対象となる。いずれにせよ、第一聯の生存不安は、生存が確約された起点にまでの遡行を企てるしかなかった。
 
詩を聯にわけて書くとき、聯の細部どうしには自然と「対応」がうまれてしまう。一聯中「焼けしに」と二聯中「熱」の照応、一聯中「日」と二聯中「〈午〉睡」の相応は見やすいが、二聯に「ハンモック」が出現したことが驚異=脅威だった。「ハンモック」は「寝る場所」として一聯中の「ソファ」の変異だとまずわかる。ところが一聯中、「言外」に付された窓外光景には樹林があって、そこに架けられている幻想物でもあったのではないか。それは幻想的な眼福であると同時に、樹間の「通路」性を「塞ぐ」(以上、一聯冒頭)障碍という双価性をおびている。しかもこれがやがて最終聯中の「磔」からにじみだしてくる十字架とも「ともに架けるもの」としての類同性を分泌することになる。むろん詩篇はそういう類想をゆるす自己表出として書かれているだろう。
 
二聯の終わり二行は丸括弧に包まれ、しかも四字下に置かれる間接性がほどこされている。その《(光について/尋ねられた)》は、それまでのながれからいえば、産道落下は同時に光との邂逅であって、否定性ではない意義を訊問された、と論脈化されるはずだ。ところが詩の作者は、このときの詰問者のほうを問題化している。具体的な人物が外傷にまつわる「光」の所在を訊ねたのではないだろう。問は超越的な位置から発せられている。それで聖性が詩篇の救済要素として出来するのだが、「尋ねられた」には、同時に不随意的な「自問」の影もある。このとき聖性=自己という、昂然たる詩の主体の位置が言外にうすく浮上してくるのだ。
 
それは、一本の壜の中
光る傷口が、川上から、流れてきた
むかし、それを、竿で突いた
川原にさらして眺めると
石のほうがもっと眩しく
「くやしさのなかでしか生きることができない。」
 
第二聯の産道落下という運動は、「川にうかんでながれる」運動を立て続けに喚起しながら、方向性そのものは鉛直から水平へとズレる。こうしたズレを「読む」ことが杉本詩においては真諦となる。修辞のすべてを圧縮による意味破壊ととらえると読解に暗喩がまつわることになるが、味読はズレを堪能しながら、読むものを空間化、ひいては作者の「手許」をも詩篇の細部から「換喩」してゆくのだ。
 
被出産時の神々しい外傷は、第三聯では「光る傷口」として簡略化される。しかもそれは異様なヴィジョンをともなう。壜のなかに容れられて、川上から流れてくるのだ。「壜」にツェランの「投壜通信」の余栄をみとめるとすると、宛てのない未来に向けられた詩の(偶然の)コミュニケーションにおいて、まずつたえられるべきと作者杉本真維子のかんがえるのが、被出産時の聖なる受難という普遍的なものごとになる。投壜通信のなかにはいっているメッセージが未来の現在時の謎を解くものではなく、通時的な普遍性だというのは、カフカ的かもしれない。

その受難にむかうのは、自己再帰性でしかない。しかもそこには残酷な色彩まで添わせるのがただしい。それでながれてくる投壜通信は、「竿で突かれる」。そうした行為ぜんたいを拾いあげて、「川原にさらして」詩篇主体が「眺める」。自己領域に温存されているものなど、何ほどのものでもない。「光る傷口」にあった「ひかり」は、川原というかけがえのない場所では、物質的な「石」ほどにも「眩しく」ないのだ。記憶、あるいは記憶にまつわる潜勢態のすべては、実在性にたいして色をうしなう。なぜか。第二聯の一節にこたえがある。つまり、端的に「存在しない」からだ。
 
これらの感慨が集約されると、第三聯の結語となる――《「くやしさのなかでしか生きることができない。」》。自己再帰性と外延性の齟齬が、ここでは悔恨として捉えられ、生はその持続でしかないという自己超越的な見解が語られているはずだ。ところが自分の発語を「引用」したような(それで鈎括弧に全体が包まれている)「くやしさのなかでしか生きることができない。」は悔恨の必須をいいつつ、この語調が現世的・女性的に俗化されている。詩篇主体が自己の卑小さ=悲傷さにむけておこなう愛着的な憐憫。形而上を語ろうとして形而下をまとってしまう女性性(と了解されているもの)の宿命が、この語調そのものに悔恨化されている。つまり「悔恨はつねに二重の状態で顕れる」。以下、第四(最終)聯――
 
一枚のひと、ひとりの肉、と、
硬貨のように数えている
ひたいの奥の整列が
炭火を燻らせ
闇のうらがわを舐めていく
穴あきの薄紙をかぶる、いやらしい文字、
から生まれてきた
(犀川の木屑にまだ、磔の痕がある)
 
まず従前の聯からの語照応をみよう。「ひたい」は第二聯「頭皮」からのズレだし、「炭火」は第一聯「焼けしに」、第二聯「熱」からの「飛び火」だ。それゆえ、各聯が連関を欠くという粗雑な鑑賞は換喩運動=語レベルのうちにまず排除される。ただし、杉本的な狂言綺語は、最終聯にあって猖獗をきわめなければならない。猖獗は実際にある。ところがそれがどうじに静謐なひびきをもつ点が杉本のすばらしい特異性なのだ。むろん文学的文飾から杉本はもともと「動物的に」逸脱している。詩の優秀な書き手の多くにないのが、この宿命的な逸脱だとおもう。
 
「一枚のひと」と、ひとの数えかたがまず不穏に逸脱する。この一枚がどこから出来しているかといえば、第一聯「窓」でがらすを言外化したために、そこにあるべきだった「一枚」がちがう場所に補填されたのだとかんがえる。逸脱は連打される、「ひとりの肉」と。ひとはたましいを存続させるが、その物質的な保証は、ひとまず作品づくりや他者との共存を度外視すれば、「肉」の生相にこそ顕れるしかない。ただし生の数の確認は自己から他へ、相関的・相補的に様相化されるしかない。
 
第二行「硬貨のように数えている」がさらに不穏だ。おんなの娼婦への変貌潜在性をクロソウスキーなら「生きた貨幣」と表現した。硬貨のように数えられるものは、関係の定常性を逸脱するものなのだ。ところが数えることには理知がともなう。ひとの「肉」の奥行に対応するのは、「ひたい」の奥で、それは数えることで整列状態をつくる。ひとりの産道落下が、ひとりであることで列をなさなかったのにたいし、数えることはひとの内在性を列の状態へと再編成するといってもいい。だから数えられる範疇にもはいる自己は、他を数える行為によって、「ただ」特異化する――つまり「列」の成員であるか否かを、「数えること」が保証しないのだった。
 
「炭火を燻らせる」には、信州のさむさとかよう暖炉の存在も浮上させるが、「数え」にともなう齟齬が一酸化炭素発生を内部的にもたらしているような感触もある。その自己燻製が、自己を「舐める」。「闇」は自己の「肉」を自己のうちがわからとらえた視界の全般であり、どうじに詩篇主体をとりまく物理的・抽象的な外界条件でもあるだろう。
 
それにしても、《一枚のひと、ひとりの肉と、/硬貨のように数えている/ひたいの奥の整列が/炭火を燻らせ/闇のうらがわを舐めていく》というように、進展してゆく行の「わたり」の素軽さは、なぜかくも見事なのだろう。ことばの単位そのものは「モノじたい」にすぎず、それは文脈をもって相互関係化されることでのみ個性化する。この個性化こそが(単位ではなく一連の)詩語性であって、詩語そのもののフェティッシュなどいまやありえない。となるとことばは、運動の圏域に参入されることでのみ、マゾヒスティックに色相化せざるをえず、その裁量権だけを詩作者がまさににぎるのだ。

このときことばに実定化されている材料は意味ではなく、いわゆる「間隔の形成度」ではないか。だからことばは間歇的に「置かれ」ながら、その間歇をべつのなにかでやわらかに充填することができる。この五行の見事さは、そうしたうすい充填に、無頓着な表情で成功した点にあるだろう。むろん「数えている」が終止形なのか、次行の「ひたい」にむすびつく連用形なのか、その解答すら出ない。これが改行詩とくゆうの恩恵だということは、改行詩を真摯に書いた者ならみな知っている。

杉本的な暴力はどこに実現するか。次行の《穴あきの薄紙をかぶる、いやらしい文字》が読者の人生経験のどこにも結実しない空振りをなす箇所にではないか(すくなくとも、この表現の内実がわからないぼくは、ここに詩篇に深甚にひらいている「穴」をみてしまう)。文字そのものが「いやらしい」のか、「いやらしい」文字があるのか。あるいは文字が上にかぶせられた「薄紙」の「穴」から透視されるときに、いやらしさを発揮するのか。ともあれ上の覆いが蚕食状態になって、文字のならびが部分視される状態がここから卑猥の質として浮上することになるが、そのように自分の非連続(とみえる)詩法をも、杉本が自己卑下していて、その卑下が詩篇ぜんたいを総括するのだろうか。詩篇が収束にむかう肝腎の箇所で判断がこうしてブレるのは、「穴あきの薄紙」そのものの指示性と適用範囲がさだまらないためだ。ふつうの詩作者はこんな「暴力」をふるわない。
 
しかも「文字、」と体言止めされながら、次行「から生まれてきた」で反転が起こり、名詞で切れていた断絶が、文の連続性に復帰する。そのあとの丸括弧でくくられた最終行を、全体が梱包された体言とみるか(そうすると丸括弧ぜんたいが「生まれてきた」の補語になる)、丸括弧ほんらいの付加=補足とみるかで、文法的な解釈を暴力的にゆらすのだ。詩篇は穏やかな口調ながら、最後にきて狂奔をしるした。しかも以上述べた「穴あきの薄紙」以後が、それ以前とどのように意味的な連関をもつのかも確定できない。確定できないものは確定してはならないだろう。
 
とりあえず詩篇タイトル、三聯目に顕れている「川原」を、信州をながれている「犀川」の具体名に収束させる機能が最終行にまずある。詩集タイトル「裾花」が裾花川を指すとすれば、それは長野市の外縁をながれ、やがては犀川に合流する川だから、犀川にはいわば大合流の「祝言」が秘められている感覚にもなる。
 
その犀川には「木屑」がながれている。第三聯で「光る傷口」を容れてながれてきた「壜」がここでは「木屑」に変貌している(ズレている)。この木屑は磔(の十字架)にもちいられた木材の部分だと作者は言外に規定している。木屑に「磔の痕」を感知したためだ。では痕とは具体的に何か。それをおもうと、第一聯の「恐怖」が再浮上してくる。木材を十字に組んだ釘打ちのあと、処刑者の手首足首を釘で打ちつけた痕、流血の痕、「存在しない」絶叫の痕――それらがにじんでくる。にわかにイエスのすがたが幻視されるのは、この最終聯の二行目「硬貨のように数えている」に、イエスを売った対価として銀貨30枚を得たユダの掌上のようすが暗示されるためで、しかも前行「ひとりの肉」により、ユダはイエスを精神から離れた肉と即物視することなくして売却(の苦悩)を敢行できなかったとさえ読めるのだった。
 
イエスの余栄がそうして杉本の在所ちかく、犀川の水面をながれている――そう試しにうけとってみて、詩篇全体を綜合する位置にいる自分をかんじ、そこに杉本じしんの位置をさらに換喩的に知覚することになる。結論は総括的ではなく、列挙的な分離状態でないといえない。以下、それをしるしてみよう。
 
○イエスの磔刑は死相の定着ではなく復活の予備だから、それじたいを世界内の産道落下として捉えるべきだ。○となると、あらゆる定着は「ながれている」。○ということは、「在ること」はそのままに「投壜通信」なのではないか。○このことを身体に知覚させるのが、地上の川なのだ。○見た目には通路は塞がれ、ハンモックで樹間は塞がれているが、定着そのものがながれだとすると、あらゆる通路性は塞がれていない。○このことを先験的に告げるのが産道落下だ。○それでもイエスとの照応において、「わたしは、だれなのか」という深甚な自己検問の余地がのこる。○いっぽう「くやしさのなかでしか生きることができない」は悔恨の必定であるかぎり、肯定性へと反転できる。なぜなら、「余地」こそが生の保証だからだ。
 
志向的に詩篇と併走すれば、この破壊的な詩から採取できる大意とはたとえば以上のようなものになるだろうか。読まれるとおり、大意にいたるためになした作業は、詩篇の細部を「数え」、それを再順番化する再編によってでしかない。その再編は詩篇細部が部分断裂していることに敬意を払ってのものだ。詩篇ぜんたいは、あきらかに意味を「いい足りていない」。だから要約を慎重に排除して、詩篇を前後左右に歩行、その体感を大意とするしかないのだ。ところがそれが可能なのだから、そこに破壊の表情からは想定できない愛着もうまれる。むろん、その大意の把握なり愛着なりは、読む者それぞれのやりかたでよい。杉本真維子の詩篇は、内部的なのではなく、外部性によってひらかれている。
 
 

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2014年12月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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