武正晴・百円の恋
【武正晴監督『百円の恋』】
松田優作賞を受けた足立紳の脚本を、『イン・ザ・ヒーロー』の武正晴が演出した『百円の恋』が大傑作だ。「空気が良い」という、映画特有の褒めかたがあるが、「空」よりも「気」がまさってそれで「空気が良い」と誰しもがこの作品におもうだろう。テーマといえば、何もひとに誇れるものなく人生負けつづけの32歳独身女がいかに精神と肉体に芯棒を入れてゆくかの「再生」ものだが、そういう括りでは収まらないものを以下にしるしてゆきたい。
【希望の場所】
ヒロイン「一子」は、28歳の安藤サクラが演じる。周知のように美形ではない。長い髪が顔の左右を覆うと、妖怪顔にもなる。このひとの演技の巧みさは、貶価的な役柄を宛てがわれたときにこそ身体的リアルをもち、役柄の精神構造から感情のあたらしさをかならず流露する点にある。終始ブス扱いされる『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』でとくにそうかんじた。つまりその一義性でない点が、潜在と現勢の重複をおもわせ、イメージの結晶をみちびいていて、結果的に彼女は、美醜や好悪では測れない、生々しい徴候となる。むろんだらしない挙止をおこなう動作設計では、若い女優中、抜群の技量をもつ。
画面登場時の一子=安藤は負性で生々しく有徴化されている。母(稲川実代子)が女手ひとつで切り盛りする弁当屋で、その生業も手伝わず(のちにレジ打ちさえできなかったとわかる)、パラサイト&引きこもりをしていて、趣味といえばTVゲームと深夜買いのスナック菓子の過食などとわかる。しかも妹・二三子(早織)が実家に子連れでもどってきて姉妹仲は険悪の一事、身体同士が軽蔑でぶつかりあう暴発も、妹がもどって早々にある。二三子の連れ子とTVゲームをするときTシャツからはだけた安藤サクラのはだかの脇腹が背後からのショットでみえて、その贅肉がいわば存在の腐臭すら発している。
ケチャップ、まずそうな弁当屋の揚げ物、吐瀉物、処女喪失の出血、その他の出血、あるいは賞味期限が過ぎて廃棄された弁当、無駄に百円コンビニのカウンターにならぶバナナ、無駄に中華料理屋のテーブルにならぶ餃子、そしてとりわけ料理経験のない男が焼いた牛肉(すね肉?)のとうてい噛みきれない巨大肉片――作品は資本主義の矛盾が掃き出す「おぞましいもの」で満載されている。それでもなかの粘液的なものが女性性(母性)と結合し、クリステヴァのいう「アブジェクション」が成立するとき、女の出血から「おぞましさ」を消去し、価値の逆転を導くことが、作品の哲学的な目標ともなる。このためにこそ、暴力の範疇には括りきれない身体どうしの殴打が触媒として必要になる。
『百円の恋』はその安藤サクラと、年齢的に引退間近で、ボクシングジムで試合準備のために一見ストイックな鍛錬をかさねる中年ボクサー狩野(新井浩文)との、トウのたったガール・ミーツ・ボーイものでもある。ボクシングジムはなぜか東京では私鉄沿線の線路際に位置していることが多いのではないか。小田急の東北沢にも京王線の明大前にもあって、東北沢のものは小池昌代が詩にしたことがある。一切が進行する「かたわら」にあって、窓を開け放ちその「内部」を夜に露呈させている。むろんジム加入者を募る宣伝目的もあるだろう。ともあれ希望は前方ではなく、進む「かたわら」にあるとしるすのが、ボクシングジムのトポスだ。妹とひと悶着あって、百円コンビニでのスナック買いに自転車でむかう安藤サクラは、自宅への帰路、ボクシングジムで厳しい鍛錬を積む新井を「かたわらに」見て、その存在を心に刻印する。
心に刻印するなにかがあるとき、身体は美化を迎えるはずだが、作品は早上がりなどしない。このことが、熟さないことばだが、「希望的」なのだった。安藤サクラのだらしないからだが漕ぐ自転車の、走行のふらつき(それは空間的にも時間的にも組織される)、不穏でするどい視線、不平を内在しているはずの心情などは、「希望性」と「おぞましさ」を重複させ、末期資本主義的な現在がなんの結晶(停滞)に負っているかを観客に告知する。このときに夜気その他、生々しい「気」が、長回しによりあふれかえってくるのだ。一種の臭「気」までかんじられるのだが、そうした「気」は現状のリアルな邦画傑作にいつも共有されている。
【希望の方向】
かんじるのは、『百円の恋』がさまざまな事物もしくは運動の「方向」をはらんでいるという点だ。それが事物レベルに終始するときは画面内の現勢にあらわれる事物自体の方向が錯綜し、その錯綜がつぎの行動へとつながれなければ希望が死滅するだろう。
わかりやすい事態をしるそう。深夜のスナック菓子買いの「かたわら」、安藤サクラが新井浩文を「視た」ことは、視た安藤にも視られた新井にも意識されている。ふたりの仲はどのような具体性をもって起動しただろうか。妹から離れ、アパートでひとり暮らしをしはじめた安藤は、殺風景でなんの家財もないその部屋で、押し入れの板面を机がわりにしてまず履歴書を書く。なにもないアパートのひとり暮らしの空間が殺気を帯びるのは、森一生『ある殺し屋』で市川雷蔵の待機する部屋もそうだった。
安藤は自分が頻繁に利用していた百円コンビニの深夜シフトで職を得る。ジムがえりの新井が来る。体重管理のためか彼の買い物は幾房のバナナのみ。(のちに策謀と判断されるが)それを買いあげた新井は料金を支払いながら、バナナを受け取らずに店を出てしまう。カウンターに置かれた房のバナナが、多様な方向を錯綜させている。それで時間(時間性)が混濁する。その混濁を回収するためには、善意の安藤が、ジムでトレーニングに励む新井へ、勤務時間外にバナナを運ばなければならない。
錯綜は意識的に作中に仕込まれている。安藤が参入した百円コンビニの職場、その同僚が観客に脱力をもたらすまでにひどい。みな壊れているのだ。店長の宇野祥平は律儀そうにみえて、のちにわかるが過剰労働で鬱病を罹患し、ときに気味悪い「幽体離脱」をひとの眼前で披露することがある。多弁な中年同僚にふんする坂田聡はギャンブル狂で勤務態度も最低、どこかで裏切りをおこなうだろう不穏さを漂わす。
宇野が倒れて失職したのち、本部から派遣された管理者の沖田裕樹は、本部の決定事項を順守し、たとえばホームレスの根岸季衣に遮二無二、廃棄弁当を「規則だから」とあたえない。融通が利かないのではなく、あきらかに以前、店の売り上げを持ち出して馘首をきめた根岸へ、「破滅してしまえばいい」という悪意を渦巻かせている。あらたに入ってきた若手店員(男子)は「マジっスか」しか語彙がない。これらはすべて壊れた類型で、それら破壊性を、一子じしんの破壊性とも共鳴共振させている。
足立紳の脚本は、途中まで「なにもわからないことはない」ように進む。武監督のしつらえる画面の意味、表情は、すべて明示的で、その土台にのって物語が予定調和的(予想可能的)にすべて進むのだ。その予定調和性のひとつが錯綜で、そうしたこの作品の「形式」には意識的であるべきだろう。
バナナを届けた安藤に、新井が唐突にデートを申し込む。このときの安藤のどぎまぎする対応は恋愛慣習のなかった人生にとつぜん生じた「希望」をからだがとりこめず、体幹の軸がゆれ、四肢のどこかが硬直する卓抜な身体表現によってなされる。ぬいぐるみが演技するような違和感は、じつはそのふてぶてしい身体性に如実に訪れた「加算」であり、加算であるかぎりは結晶化の予兆を導く。
新井と安藤のデートは不恰好で退屈だ。以前の同僚に軽トラを借り(最もデートにふさわしくない乗り物)、凡庸にデート場所に動物園と海岸が選択され、発語がつづかず、重い「気」がたれこめる。相性判断では不毛な関係とさえいわれるのではないだろうか。
新井が二度目にバナナを百円コンビニで買ったとき、代金は自分の出場するボクシングの入場券だった。自分の雄姿をおまえにみてほしい、という申し出ならチケットは一枚で済むはずなのになぜか二枚あり、これが「数の錯綜」を形成する。新井のそのようすをみていたコンビニの気持ち悪い同僚・坂田聡が自然、安藤と同行してボクシング観戦してしまう。それで以下、32歳にして処女喪失する一子の「相手の錯綜」を呼び込んでしまう。順序はこうだった。
試合では一時優勢にみえた新井だったが相手の一発にあえなく沈む。結果、年齢的に限界に来ていた新井の、それが引退試合となった。安藤だけがファイトの厳粛さと勝敗決定後の選手間のエールの交換(グラブをつけたまま抱擁する)に感動している。その記念会(残念会)ということで新井のために、安藤ともども中華料理屋で坂田聡が一席を設ける。カネならあると豪語している坂田が不穏だ(彼に何が起こっていたかはのちわかる)。
前言した餃子だらけの卓。減量試練から解放され新井は料理を旺盛にぱくついているが、安藤がトイレにいった隙に、訳知り顔にボクシングを語り、しかも安藤と自分がステディの仲だと虚言を弄した坂田は、腹へ新井のパンチを食らってしまう。食事という目的を終えた新井は退席。もどってきた安藤は新井の不在を知り、導かれるままに泥酔、結局は店を出たあと帰路にあったラブホテルへと無理やり坂田に連れ込まれ、一室で陰惨な処女喪失を迎える。翌朝、痛さにガニまたになってラブホを出て、目的を遂げいまだ就眠している坂田を、安藤は警察にケータイ通報した。
来店した新井が風邪と泥酔から百円コンビニのカウンターへ正視に耐えないような小間物をぶちまけてしまい、つまみだされたあと(これほどコンビニのカウンターでドラマが集中する映画は稀だろう)、退店した安藤は、路上に「ゴミのように」寝ている新井に出会い、「持ち帰る」。それから「ゴミのような」偶発的な同棲がふたりに起こってしまう。
錯綜を組み入れる作劇が相変わらず見事だ。新井の風邪が安藤にうつり、安藤は「風邪がうつりあう」仲の嬉しさを「気持ち悪く」語り、新井を辟易させる。なのに風邪の身の安藤と、新井はセックスをする。新井の真心は「硬くて噛みきれない大肉片のステーキ」となる。恋愛蓄積がないままに浮かれる安藤の媚態を、「おまえ、なにブリッコしてるんだ」とあきれる。当事者でない観客は、身体の地に、動作や表情が違和の図として加算されているその安藤の全体に、「あってはならない」可愛さを見いだして、倒錯的に魅了されることになる。身体の多数性そのものが魅惑の原質なのだ。
筆者はこの件につき、ちょうど直前の学部授業で、『赤い殺意』春川ますみの露口茂への動作(とりわけストリップ劇場の屋根で、札束を露口の手に忍ばせる動作)をつうじ分析をおこなった。
関係に異物感のある錯綜をしるしていたふたりは、新井の、路上豆腐売りの女への乗り換えを結果させる。これも方向の錯綜なら、新井の喪失が確定してしまった安藤が、新井のおこなっていたもの、つまりボクシングにふれるためにボクシングジムに入るのは、対象の錯綜と受け取れるだろう。あるいは安藤が勤める百円コンビニでも重大な錯綜がある。廃棄弁当をあたえる/あたえないで、管理者・沖田とホームレス・根岸に闘争があるとき(安藤はいつも根岸に弁当を横流しする)、より貧困な者にこそ同意を起こさせる価値観の錯綜を、作品じたいが促成するのだった。
ここから錯綜が一面で解除されてゆく。予想されたようにボクシング・トレーニングに打ちこみだした安藤の身体に変貌が起こるのだ。当初は喫煙と過食でだらけていたその身体は、次第に芯がはいって機能性、速度(敏捷さ)、力感、リズム感を増大させてゆく。もともと安藤の顔に殺気があるから、予定調和的に上達がフラッシュ編集でしめされる定番があっても、画面は真利子哲也『イエローキッド』のように、あるいはイーストウッド『ミリオンダラー・ヘイビー』のように、力感を緊迫のなかに充填させ、作品の予感性が一触即発状態にまで高められる。
気をつけなければならないのは、実際にトレーニングを俳優の役作り義務を越えておこなったはずの安藤にたいし、腹筋の形成、上腕筋肉の緊迫化など分析的な接写がおこなわれなかったことだろう。しなる体幹こそが把捉の眼目だった。ジャブもフックも、そのするどさをましている点は安藤の全身描写でとらえられ、パンチングボールを打ちながら安藤の眼の動体視力がまし、速度の微分の生じている点も、安藤のするどい眼の接写ではなく、眼と上体の連動描写によってだけしめされる。やがて安藤は禁煙し、心肺能力を上昇させ、トレーニング走行が速くなり、身軽に引締まり、いつのまにかコンビネーションパンチとフットワークとが舞踏的に相互を高める魅惑的な身体性まで獲得している。それらもすべて部分への分析的なフレーミングではなく、身体の全体ショットによって素早く差しだされるのだ。
つまり「希望」は筋肉や部位からは生じない。身体直下の内在域から泉が湧くように分泌されるのだ。そうして一子の名とおり、「一」の全体化が希望の方向となり、その希望も前方やかたわらにあるものではなく、直下から身体の表面全体を貫通するものとなる。「一」であることが錯綜を蹴散らす、このことが画面連鎖のなかに高度に組織され、結果、観客の身体も力の充填を経験するだろう。むろんそのためには任侠映画のように、前段の試練が必要だったことはいうまでもない。
【希望の再錯綜】
そうしてこの作品が、いつも何かを失って、希望待機期間の期限切れも迫っている安藤の再生を『ロッキー』のようにしるしてゆけば、それなりの娯楽作に収まったかもしれない。そうなるだけの安藤の身体の変貌が素地にあった。主演者の体重変化という話題は、ロバート・デ・ニーロに代表されるようにアメリカ映画的だが、その能天気な規定性への着地を、それまでずっと予測可能なストーリー進展で臨んでいたこの作品が、とつぜん放棄することになる(緊迫をあたえる事態だが、展開の踏み外しに、人生上の蓋然性にたいするユーモラスな見解を失わない点が見事だ)。
曲者コンビがいる。安藤のトレーナーとして、彼女の「気」迫と具体的な技術上達にいつの間にか心を奪われ、「打てば響く」熱心な指導をしいられる感のトレーナー役・松浦慎一郎と、安藤の練習を熱心にではなく、冷笑的な片目で見やりながら、年齢制限ぎりぎりでボクシングの世界に迷い込んできた安藤の自分探しの凡庸さを揶揄し、ときに巧言をもちい、ときに「ボクシングはそんなに甘いもんじゃねえ」と平たい皮肉をいうジム会長役・重松収との「温度差」が、ジジェクのいう「シミ」になるのだ。この「シミ」はむろん作品がそれまでちりばめてきた「汚物」とはちがう。
プロテストに合格した安藤だったが、試合の設営に会長・重松収は気乗りではない。けれどたまたま破竹の強者が対戦相手を失い、その咬ませ犬的な代理出場者として安藤へ白羽の矢が立つ。観客は予想している。安藤の身体変貌が気迫にみち、実際にも運動能力の上昇が画面を充実させているのだから、初の試合に安藤が勝つ「作劇の逆転」をこの映画が予定調和的に――『ロッキー』的にしるすのではないか。ところが映画をよく観る者は、ストーリー進展が予想可能なこの映画にあらかじめ「錯綜的に」ただよっている『イエローキッド』『ミリオンダラー・ベイビー』的な「殺気」を、なにかの徴候としてみとめているだろう。そうして作品の結末に、すばらしい「錯綜」が起こる。
ネタバレになるので、その結末はかけない。だから以下は抽象的にしるそう。その錯綜は第一にストーリー予想にかかわるものだ。むろん喋々できない。錯綜の第二は人物の出入りにかかわるものだ。安藤の相手はサイトなどに出演者クレジットはないが、たぶん実際のプロ女子選手だろう。その顔、全身、速さ、力感、ドレッドヘアーが素晴らしいが、鍛え抜いた安藤もそれに充分に拮抗する身体的膂力をたたえている。しかも安藤には、往年の輪島功一のような「奇蹟の左」という希望への起爆剤が秘められている。
それなのに一方的に打たれる。このとき客席が映る。眼をうるませている妹・二三子=早織の眼がそのまま観客に主体化されて催涙をみちびく。新井もやがて映る。彼は外聞も、斜に構えていただらしない生活への誇りも捨て、「立てーっ」とさけぶ。そうして作品が内に秘めていたそれまでの登場人物が錯綜的に再登場して、いわば「現れの多元」を刻印、観客を感動にみちびく。
演出処理上の錯綜も見事だ。パンチをくらって、安藤の顔は変型し、まぶたあたりを凄惨に腫れあがらせる。見た目でいうと安藤は相手から容赦なく殴打をくらっている。ところが顔の変型は、技術的に最高のメイクにより補強されている。ところが試合の迫真性は、アルドリッチ『ロンゲスト・ヤード』のアメフトのように迫真的な展開性をたもちつづけた。もう催涙的なほどに。
いちばん錯綜をしるすのが、作品が準備してきた「希望哲学」のその後の経緯だった。この錯綜じたいの経緯が豊かなのだ。整理しておこう。まず希望の場所は通過過程の「かたわら」に現れた。つぎに希望の方向が、身体の内発領域から貫通的ににじみだし、希望の他者性が浸潤された。そこまではまだ他の作品でも実現できることがらだろう。ところがこの作品のラストでは、勝敗にかかって希望の様相そのものが錯綜し、作品は意味形成を「錯綜的に」遡行させることになるのだ。端的にいえば、あらかじめあった錯綜のすべてこそが希望の徴候だったことを、ラストの処理があかすのだが、それは物語論的には「それまでの経緯」と「ラスト」が隣接的だったからこそ実現されたことがらで、つまりは「希望が換喩的な隣接領域にのみ胚胎する」その哲学こそが告げられたことになる。
希望の本質は他在的なズレなのだ。希望は潜在ののち、他領域にこそ現勢する。それが希望の結晶性で、その結晶は結晶の通常予想とことなり動勢すらともなっている。このことを先駆的直観的な寓意文言でつづったのが、ベンヤミン『ゲーテの『親和力』について』の、例のラストの文言でもあった。《ただ希望なき人びとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている》。
価値はずれる。明言はできないが、作品のラストで、顔貌の真摯度をたかめた新井に、「とあるもの」だけが自分の人生の必要上ほしかった、と顔の痛ましく変型した安藤が語る。観客はおもわず口添えするだろう。「おまえのもとめていたものを、もとめられなかった結果のうちに、おまえはすでに得ていて、精神を変貌させたおまえはそれを今後も得つづけるだろう」と。奪取不能性のなかに奪取すべき対象がきざまれているというこの隣接的なズレこそが、作品がしるす最終的な「錯綜哲学」だったことになる。感動は必至だ。
夜の街や室内の湿潤をまるごと掴みだす西村博光の撮影も見事だが(それまでの代表的な撮影作品には『闇金ウシジマくん』がある)、撮影内容と同時並行的に場面の「気」を増大させてゆく海田庄吾の音楽も特記できる。マイナーディープソウルバラードのコード進行に、溜めの緊張をともなったリードギター音がピックを引っ掻くようにはいってゆく。レイジ―で夢幻的な、それどもするどい気配があらわれる。これが、安藤が賦活をしるしてゆくフラッシュ編集の過程ではストレートロックに変貌して躍動がしるされ、試合の渦中のスローモーション場面ではストリングス音楽になって殴打そのものの高貴化荘厳化までみちびかれてゆく。しかもそうした経緯が自らを棄て、クリープパイプの主題歌へと橋渡しをおこなうのだった。
一月十五日、札幌シアターキノにて鑑賞。客席は大入りで、若い女性客が多かった。だれかを「希望的に」殴りたい本能が、その層にはたかまっているのではないだろうか。