三島有紀子・繕い裁つ人 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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三島有紀子・繕い裁つ人

 
 
【三島有紀子監督『繕い裁つ人』】
  
  
図形的には、並列が静謐をつくりあげる。ならば時間的には、反復が静謐をつくりあげるだろう。劇伴音楽の記憶がないほど(それでエンドロールでの平井堅の、財津和夫のカバー「切手のないおくりもの」の歌唱に驚愕する)、すべてが言葉すくな、静的な映画『繕い裁つ人』は、いわば静謐にかかわる真剣な考察集だった。
 
神戸の全貌を見下ろす坂道頂上の高台、そこに南洋裁店が位置している。小ぶりで年代ものの洋館、しかも内部は和洋折衷の要素も組みこみながら、室内全体が渋い色合いでまとめられ、そこへ自然光がはいりこんでくる。それだけでフェルメール調のヨーロッパ映画の風合がうまれる、めぐまれたロケーション(建物)だ。そこに、偉大な祖母の死後を継ぎ、孫の「市江」が旧式の足踏みミシンで服を仕立てている。
  
徹底的なオーダーメイド。顧客はほぼ地元民で、しかも主流が中年以上とみえる。徐々にわかってくるのがその衣裳哲学で、衣裳は生を活性づけ、行動に積極性をあたえ、しかもその風合は着る者の存在じたいと「似ながら」、さらにそれを補強しなければならない。そうしてできあがったスーツもしくはドレスは、存在に即しているのだからとうぜん一生もので、だから一旦できあがった服も、身体の変化(肥満化、肩落ちなど)にあわせ、こまめなサイズ直しをほどこさなければならない。ひとは存在を着衣し、似合うこと、矜持を着衣する以外に、記憶や記念をも身にまとうのだ。
  
このために市江は、亡くなった祖母の仕立て直し、サイズ直しに専念し、たまさか新作の服を仕立てたにしても、そのデザインにかかわる寸法さえ祖母の達成したものを墨守している。顧客の記念日や年表は祖母のデザイン画の余白に書かれたメモとして綴られている。それで劇中の女子高生たちからは、スカート丈の長すぎる鈍重さなどを、古臭いとあげつらわれる。それでも劇の端々で、時代変化に即応する自らの創作欲を封印してしまった市江の苦衷が、なぜか透明さをまとわせながらもつたわってくる。
  
祖母と孫のあいだの反復。このばあい反復は強制力をともなっている。反復にこそ価値と信念があることを、市江自身、さらに顧客もが了解し、これを、市江=南洋装店の服をブランド化しようとするデパート(画面には三宮の大丸のエントランスが何度も映る)社員、衣料品企画担当の藤井も痛感することになる。となると反復の「ズレ」が、方向変化のささやかな希望となり、そこに市江が祖母のデザインの縛りから離れてわかいひとの服を仕立てる営みが潜勢しているはずだというドラマ上の構図がうまれる。
 
まずは反復を列記してしまおう。微妙な俯瞰角度によって、南洋裁店にむかうため神戸の坂道をのぼるスーツ姿の藤井が、徐々に上体をあかすように幾度も現われてくる。市江は背中を向け、打音にちかいリズムを散らしながら足踏みミシンで、きらめく西日(それでもまだ白光だ)のなか、布を服にむけ何度も縫製している。すべて同構図だ。社内の企画会議で南洋裁店のブランド化交渉に承諾を得た藤井は、祖母の仕事を継ぐだけでいいとする市江から何度も拒絶をうけるが、ちいさな落胆の帰途には何度も珈琲店「サンパウロ」が傍らに現れる。来客のために紅茶を淹れる動作も、たびたびくりかえされる。
 
やがて市江への交渉は空洞化し、市江と顧客とのやりとりを聴きながら、市江の母・広江(彼女は厳格性を欠き、祖母からの仕事を継げないかわりに、陽気な磊落さと可愛さをもつ)と、まったりとした時間を藤井はすごしだす。在宅の自然化。このときにはみたらし、あんころ草餅などの串団子が約束事のように登場する。
  
反復とは、事前と事後とに類似をつくりあげることだ。ところが市江の仕立て直した衣裳を誇りたかく身にまとうひとには、自身と衣裳の類似があると前言した。その類似は、みずからがみずからにしか似ない(類似そのものから類似性が分泌される)という峻厳な閉塞をつくりあげる。この峻厳さは存在の有限性にもかかわっていて、そのままでは重く、類似は類似のまま死後へと拉致されてしまうことになる。それで「似ないものどうし」の類似、いわば詩的な照応が渇望されてゆくことになるだろう。この映画の作劇の眼目も、まさにそこにあった。
  
反復のちいさなずれを振り返ってみよう。たとえば珈琲店「サンパウロ」は細い坂のなだらかな途中にあってじつに風合の良い構えだが、そこで打合せをしようとする藤井の提案を、市江は無下に断る。やがて真意が知れる。そこは市江のプライベートな店なのだ。よっぴいて裁縫をする市江は晩食をしないという前段があって、市江はたまに自分への褒美用にその店で出すチーズケーキ(ホール)を食べることを愉しみにしている。瞑目して全身で味わうときのしずかな官能性は、市江を演じた中谷美紀ならではのものだが、絶対にプライベートという鉄則は、やがて藤井とともにそのチーズケーキを食することで破られ、さらにはおなじ味を墨守していると掛け合う店のパティシエに「味がかわった」と市江=中谷が正直な感想を漏らすまでにいたる。じつはそこではケーキの味が変わったのではなく、それを味わおうとする市江の身体に、萌芽的な変化が兆していると観客が観察することになるだろう。
 
ブランド化の話をもちかける藤井は、けっして商売本位の拡張主義者ではない。その誠実さの醸成に、演じた三浦貴大の個性が役立っている。のちに理由が判明するが、服飾にたいする異様な情熱があって、しかも縫製の丁寧さ、デザインセンス、着るひととの調和感など、衣服の美点を瞬時にして冷静につかむ洞察力もある。それでも彼はたまさか図書館で会った市江に、ブランド立ち上げのハウツー本を軽薄にも薦めてしまう。それが軽薄さの罪をまぬかれるのは、図書館で提示されたそのハウツー本をいったん打棄った市江が、やがてその本をみずから購入、それをサンパウロでのケーキ食の友とした事実が繰り出されるからだ。しかも退店後、その本を卓に忘れたと市江は気づく。だが、取りに戻らない。このときは市江の意識を明示すべく、その本が画面にふたたび召喚されることがない。 
 
このあとで、三浦と中谷がサンパウロにともにいるのだから、店主から「忘れ物ですよ」とそのハウツー本が再提示され、それが中谷に兆している心境変化を三浦につたえるものであってもいいのに、そうもならない。つまりハウツー本は、ドラマの時間進行から忽然と消えたのだ。反復の魔力を解くもののひとつにこの「消滅」があるというのが、映画のしめす哲学的な展開のひとつだった。
 
すべて語りすぎず、シーンの淡々とした間歇描写を自己鉄則的にしるしてゆくこの作品では、反復から弱音化された連打性をひびかせてゆく。ところが肝腎なところでは、現実音のつよい発生がある。杉咲花が襟のかわいい青い細密模様のドレスをもって南洋装店を訪ねる。母の形見の大好きなドレスだが、自分は小柄で、しかも高校生なので、この寸法のままでは着られない。その申し出を中谷が受けるが、ほかの顧客とのやりとりもそこに付加的に混ざり、杉咲の申し出はドラマ進行のどこかに潜ってしまう(このやりとりのなかに藤井=三浦もいる)。ところが画面はとつぜんオフの残酷な音を切り裂いた。瞬時にカットが変わると、開いたままの裁縫鋏で、トルソにまとわせたその杉咲の母のドレスを、作業開始の前段として迷いなく裂いていたのだった。
 
三浦貴大の現実的な挙止にたいし(彼のスーツの着こなしには丁寧さがあるが、超越的な美観がない)、中谷の市江は、紅茶も満足に淹れることができないかわりに、自分の仕事だけには残酷ともいえるほどの決断力と創意がある。中谷の仕事服は、堅さのあるロングドレス状で微妙な青色を放つ、一八世紀あたりの舞踏会服とも、なぜか権威的な裁判官の服ともみえる。それが中谷の背筋を伸ばす。伸ばしたうえで上体が屈められるときに現れてくる気配が「決断」だろう。裁断と決断の同韻。そのうえで彼女は優雅なモデル歩きまでして、仕事の良さが仕種の良さと通底する真実を体現している。
  
作劇を禁欲するこの作品では、ドラマ上のフラッシュバックが現れない。進行は前進的で、かつ間歇的でなければならないという自己抑制が貫かれている。ところが例外がある。三浦貴大が微妙な俯瞰ショットで神戸の坂道に徐々に上体を現してくるようすが反復されるとしるしたが、それが市江の祖母の葬儀=回想シーンで、上体の現れが複数化を迎えるのだ。クルマで生前の街を名残にみる偉大なその南洋装店の女性職人に弔意をしめすため、馴染みの顧客たちは彼女のつくった服で正装して並び、弔意をしめし離れて故人を見送ったと前段で語られたのち、フラッシュバックとなって、坂道から次々と実際にすがたを現すのだ。三浦の単数が顧客たちの複数へと倍加し、しかもそこにスローモーションがかけられることで感動させることはたしかに作為的だが、複数が単数を救抜する図式は決してあなどれない。やがて葬儀のクルマがその見送りに応えるために停まり、外へ出た中谷、その母の余貴美子らが礼をするときも、仕種の反射が人間界にあって普遍的にうつくしいとかんじさせた。
 
反復を原則にしているが、この作品で大切なものは、「二度」だけ現れる。「二度」は反復の最小単位でありながら、その純粋形ともいえるだろう。「二度」現れるものは、女優では中尾ミエと黒木華、シーンとしては年に一回、南洋装店の服で正装した中年以上の男女たちが、楽団演奏によって舞踏や飲食に興じる、なかば秘密裡の「夜会」だった。
 
まず中尾。市江=中谷の高校時代の恩師だった中尾は、亡夫との出会いのときに着ていたドレスを、来るべき日のための死に装束へ仕立て直してほしいと中谷に依頼する。その中尾の家に、市江がゆくことになるのだが、そこへ藤井=三浦を同道する。そこで中尾は、市江の実母=余どうよう、市江=中谷の、裁縫いがいに取り柄のない不器用な単機能性を揶揄する。
 
丹念に庭をととのえているその中尾邸が、二度目に画面に召喚されるときには、ドラマ上、三浦の不在化がつよく刻印されている。中谷が庭に現れたとき、中尾は植物への水やりをしている。徹夜で中尾の服の仕立て直しを藤井=三浦は手伝っていたが、中尾の往年のドレスがどう仕立て直されたかの結果は、箱に収められ、画面上秘匿されていた。それが中尾のすがたによって露呈する。服は園芸用の仕事着(エプロン)に可愛く様変わりしていた。死期を予備して老けこむのではなく「いまを享楽的に生きよ」という市江のメッセージが込められていたことになる。
 
このとき一度ひとりだけで藤井がその後来訪したと中尾が中谷に告げる。そのときの藤井のしずかな決意のようすを中尾は「代弁」したのだった。藤井をめぐる鉄則は、その心情が代弁者によって事後的に語られるということだ。自分を語る自己再帰はそのまま反復の構図に収まるが、反復を市江に認めない藤井は、その見返りに自分語りを禁じ、結果、自分の消滅ののちに自分の代弁者を反復させることになる。いっぽう市江の「自分」は、行動から滲む「徴候」によって語られるだけだ。なぜなら彼女=中谷は、視線にこそ発語機能を担わせるミニマルな自己表現者だからだった。とはいえ彼女は真摯にみつめることのみを態度にして、睥睨など権威性を視線にまとわせることは一切しない。
  
藤井=三浦が舞台・神戸からきえ、いったんドラマ進行の陰に潜行してしまったのはなぜか。そこでは一度目の「夜会」がかかわっている。杉咲花とその同級の女生徒ふたりが触媒因だ。給仕として夜会への臨席をゆるされ、黒服で身をかためた藤井は、その従前のシーンで、南洋装店の衣裳部屋に闖入し、居並ぶドレスのデザインを古臭いなどと好き勝手いっていたそれら女子三人組をたしなめる。それでも彼女たちの好奇心は収まらず、秘密の花園への探検者のように茂みから夜会の優雅な進行を窃視することになった。窃視者にはアクタイオンの運命が待ち受ける。着る服を流行に合わせるだけで丁寧に着ず、脱皮するように使い捨ててゆく彼女たちに、しずかだが意味上の大喝をしたのは杉咲の祖父の中田老人だった。
 
ここぞという正装必要時に、その正装が自分自身に類似することを継続させてゆく生の矜持は、おまえたちにはわかるまい、生の矜持とは死の矜持の裏面を張りつめるものだ――敷衍すればそのようなことを中田老人は告げ、三人組は自分たちの浅はかな興味本位に恥辱をおぼえずにはいない。この中田老人も、市江のスタンスを「代弁」したのだった。代弁のうつくしさは貫徹されている。けれども結果、中谷の仕事を貫いている反復が難攻不落の哲学性を帯びているとさとった藤井が、自己をみつめなおすべく、神戸の衣料企画部の職をなげうち自ら異動を願いでたのだった(この事実もまた事後判明する)。
 
この作品でいちばん泣かすのは、予想がつくだろうが黒木華だ。あるシーン。ドラマ上の脈絡なく、クルマが三宮の路上に停まる。運転者は車椅子をしいられた黒木華だった。不如意をかこちながらクルマから出た彼女が、車椅子で歩道上にのぼろうとするが段差があってうまくゆかない。それを通りすがった市江=中谷が補助して、ふたりのやりとりがはじまったのだった。
 
黒木は、服の着こなしと雰囲気から、ひと目で自分を助けた女性が、自分の兄・三浦貴大が執着していた市江そのひとだと見抜く。それほど熱狂的に自分の妹へ、市江の服の良さを三浦がつたえていたと問わず語りに判明する恰好だ。それだけではない。兄の服飾への異様な興味の源泉が何だったのかも黒木は「代弁」してしまう。自分が幼少期に事故で下半身不随となったこと。引きこもりになった。ところが母親が可愛い襟のワンピースを買ってきた。それを着て外へ晴れ晴れと出て、自分の引きこもりは終了した。ところがこの一件で「衣服のちから」に真に感染したのが兄だった――そう黒木は「代弁」する。代弁されて、ドラマからきえてしまった寡黙な三浦の面影がたつ。
 
気をつけよう。代弁された内容は、黒木の心情を三浦の行動が人生上「代弁」したということだった。「代弁」の反射。つまりここでは反復が反射によって救抜される哲学がしめされたことになる。このあと黒木と中谷のやりとりは三宮の路上から港に移され、中谷はいかに修業時代に祖母が厳格だったかをはじめて「自分語り」する。これも反射の効能だろう。
 
反射は相対物の類似と近接する。しかし近接にとどまり、完全な同化をもたらすわけではない。反復とは構造がちがうのだ。むしろ反復を最終的に解除するのは、「似ていないものどうし」の類似だろう。ドラマはクライマックス、そこへ突きすすんで、その哲学的な真正さで泣かせる。
 
神戸の街を急ぎ足であるく三浦。銀座の三越の家具売り場でのすがたを点綴されたのち、ひさしぶりに実在性をともなっての画面登場だ。やがてジャンプカット。ウェディングドレスをつけた車椅子の花嫁が後ろすがたで画面に収められている。きよらかな白光の横溢。もともと後ろすがたをうけもったのは、映画の最初部から反復されていたミシンでの縫製作業中の中谷だった。そこには音があった。この花嫁のすがたには音がない。やがて花嫁の顔がしるされるととうぜん黒木華で(「結婚」の挿話の前振りはない)、この二度目の黒木は花嫁化粧をほどこされているから最初の登場時よりもずいぶんとうつくしい。しかしもっともうつくしいのは、兄の到着の遅さをとがめながらも、兄妹のあいだを、発語など必要のない黙契こそがささえている点だろう。
 
しかも催涙的なのは、花嫁用の車椅子と一体化したそのウェデングドレスの、ゆきとどいた、やさしい、内面的にうつくしいデザインを、ひと目で市江のもとだと悟った藤井=三浦が、妹・黒木への祝辞もわすれて、布をとりあげてその風合を触覚でじかにたしかめずにはいられないようすだった。その兄の「業」を妹が笑みをふくんだしずかな感慨で黙認して、振り返らない。兄はすぐに気づく。その花嫁衣裳の襟も、幼少期の生の積極性をとりもどす契機となった、母のプレゼントによるあのワンピースの「襟」がそのまま転用(引用)されていたのだった(ここでも説明的なカット処理がない)。これは反復なのか。ちがう。むしろ反復を荘厳させるため、ちいさな極点にあらわれた反復の三次元――結晶というべきだろう。反復的なものは結晶性をおびることで、反復の具備する磁力・呪力を、内界へむけてくつがえしてしまう。やはりここでも反復にかかわる哲学的な知見が語られたのだった。
 
黒木の結婚式には遠目の位置で中谷も参列していたのだが、三浦と中谷が再会するドラマが欠落している。以後、ドラマは反復のあるべきところに欠落が代位して、反復予定性を余白化し、余白そのものに感慨をおぼえさせる、あらたな反復哲学を組織化してゆく。
 
中谷は「夜会」へ移動した。それで禁欲的なそれまでの作劇が封印していたシーンバックがはじめて開花することになる。この二度目に登場した「夜会」が、ホテルの夜の庭で催されている黒木華の披露宴と交互に綴りあわされることになるのだ。中谷がかんがえた演出なのだろう、長いウェディングドレスの裾に子供たちが風船を括りつけ、その浮力で裾がひろがりのぼってゆくうごきが捉えられる。
 
いっぽうの「夜会」では「ふたたび」杉咲以下女子高生三人組が闖入するが、目的がずっと真摯なものに変化したと綴られる。一度目の夜会、その諌言でつよい印象をのこしたあの中田老人が物故したが、彼が大事にしていたスーツだけはこの夜会に参加させてほしいと依頼したのだった。承諾した中谷はトルソにそのスーツをまとわせる。夜会のクライマックスでは参列者全員がその身体を欠いたスーツに弔意の礼をしめす。ここでは市江の祖母にしめしたあのフラッシュバックシーンの弔意の礼が反復された。
 
問題は、ウェディングドレスの裾を空中へひろげてゆく黒木と、トルソにスーツをまとっただけの中田老人の「幻影」が、シーンバックにより照応され、「似ていないどうし」に類似が結果されてしまうことだろう。実体と虚体。顕在と潜在。動勢と永遠の停止。幽明の境も超え、それら正反物を「つないでしまう」のが、衣服の幻影なのだった。衣服は当人に類似するのみではない。当人の死後や不在にも類似し、つまりは衣服を媒介に、肉体の実在と不在までもが似てしまうのだ。実在と不在が混淆すれば、不在が勝つ。ところがその不在は衣服の幻影に荘厳されつづけるともいえる。当人の記憶よりも、さらにあわいすがたをもって。
 
作品が表象したもののうちで、あらためてトルソが身体よりもさらに芯をつくっていたとおもいあたる。作劇中、積極的にトルソにむすびつけられていたのは杉咲花だった。亡き母のワンピースの仕立て直し。丁寧に着られていたそのワンピースは、トルソにまとわれ、中谷の裁縫鋏により英断的に裂かれた。杉咲以下、女子高生三人組が南洋裁店の衣裳部屋に闖入したその空間も、無言のトルソがドレスなどをまとう衣裳の森だった。ついには杉咲の祖父のスーツがトルソに着られ、これが遠近感のさだかならぬ礼拝対象となった。
 
トルソがマネキンでない点がすばらしい。抽象性をもち、フェティシズムをもたないトルソでは、まとわれた衣服が宙に「浮く」のだ。あたかも、オノデラユキの写真のように。トルソは衣服をまとうことの基底材と位置づけられる。トルソそのものが衣服の交換可能性であり、それは人体のかたちを部分的にもった、重ね書きを喚起する羊皮紙に似た何かなのだった。トルソのうえに衣裳のすがたをした歴史の幻影が変転するとすれば、トルソは無魂もしくは物質性であっても、歴史主体としてだけは有魂で非物質的だととらえられる。そのうえにひとの営みのすべてが集約的にうごくとすれば、ひとよりもトルソのほうが先験的だともいえる。それは「幻影の巣」でありつつ、同時に「幻影」なのだ。この意味でトルソでは正反物が類似しているか、類似が類似を分泌しているか、そのどちらかの判断をうながす材料ともなるだろう。このトルソを直視すると、映画『繕い裁つ人』のもつ無常観が豊饒だと理解される。むろんこの言い方は撞着語法的だ。
 
中谷は女子高生三人組のまなざしが生の本質にむけられたとかんがえたのだろう、あなたたちに一生たいせつに着られるドレスを、(祖母のデザインワークを離れ)新規につくると約束する。ところがそのドレスがまたもや結末に現れない。「不在」表象の決意がやはり貫徹されている。むろん反復は継続物の不在化によって余白をつくりだし、その余白にこそ情が乗ると作品が計測しているためだ。
 
原作は池辺葵のコミックだ。少女マンガの流れだろう。コミックスは現状で計六巻ある。反復にまつわる知見を、さまざま哲学的に〔ブランショ的に/ドゥルーズ的に〕変奏しつつ、物語の直線性を峻厳に破線化した脚色が、少女マンガ的な原作に忠実であるとはとてもおもわれない。原作コミックは未読だが、構成に大胆な改変があったとみるべきだろう。脚本を担当したのは『永遠の0』の林民夫だった。
 
二月十一日(建国記念の日)、札幌シネマフロンティアで観賞。中高年男女で満席だった。
 
 

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2015年02月12日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

車椅子使用者は、映画的にはかならず明察者として現れる。この映画の黒木華でもその法則が守られた。
 
そういえば文中にしめした以外にフラッシュバックがふたつあった。黒木華の子役が母親からワンピースをプレゼントされるくだりと、女子高生たちの肉親の普段着すがたをつづるインサートがそれらだ。つまり主役ふたり(中谷、三浦)にかかるフラッシュバックが存在せず、それでこの作品を非回想的とよべる。中尾の家で中谷が女子高時代の自分の写真を三浦に見られるのを拒むのもその点にかかわる。そうなったのは、服そのものが存在を回想するためだろう。さらにその服をも存在とかんがえるなら、その生存形式もひとつにさだまる。これが「間歇」だった。

2015年02月14日 阿部嘉昭 URL 編集












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