ティム・バートン ビッグ・アイズ
【ティム・バートン監督『ビッグ・アイズ』】
冒頭タイトル部分、接写からすこしはなれた関係図へ、という経緯で、印刷機が印刷をおえたカラーの絵画を一枚一枚吐きだしてゆくようすが映される。絵画は巨きな眼をした子供の顔の存在を、感傷的にかたどっている。60年代当時のカラーアート印刷だから、紙の吐きだされるうごきは遅い。これが「生」のスピードだ。
とうぜんこの画柄は、輪転機がセンセーショナルな記事を戴く新聞を、高速(=大衆文化のスピード)で吐きだす定番の描写を「予想させる」。たしかに作品はそうしたシーンを召喚した。輪転機シーンは世間にセンセーションが拡大したことの換喩となる。むろん換喩性を起動力にした30年代ハリウッド映画では欠かせない意匠だった。ともあれティム・バートンと換喩――その二項が、映画冒頭ですでに頭をよぎったことになる。
ティム・バートンといえば一般的なイメージは寓喩の映画作家だろう。寓喩はいわば「物語的内包」で、個別の登場人物(登場動物/登場怪物)を謎めいた物語単位にする。そのために必要なのが空間的逼塞で、バートンはそこへサブカルチュアルなギミックを装飾する。さらには飛翔や落下を中心にした空間的うごきを配剤して、視覚の寓喩性を魅惑的に組織するのだ。
寓喩の「物語的内包」にたいして、換喩は「進展的外延」を志向する。その進展的外延が、「分有」という形式で組織されたことに、いかにもティム・バートンだと感激してしまった。
絵画の印刷から物語の実際的な撮影に移ると、母親が幼い娘とともに、完成絵画などを詰め込み、夫の暴虐から逃れようと喫緊の「家出作業」をしているとわかる。母娘はクルマに乗り、去ってゆく渦中の光景が付帯的に画面にとりこまれてゆく。北カリフォルニア郊外の、マッチ箱のような家屋のならぶ人工的な光景が、空白を中心に置く脱中心的な構図でとらえられて、今回のティム・バートンの『ビッグ・アイズ』は、実話から採られた題材だから空間的な外延を志向するのかとおもったら、じつは58年以降、60年代前半まで、時代色をまとわせた光景により、やはり寓喩に必要な空間的逼塞を手放さないとも直観した。50年代映画に依拠した構図とうごきの把握がたしかに郷愁をさそう(それにTV受像機などの小道具も)。
喧伝されているように、映画はウォルターとマーガレット、眼の巨きな子供などを哀愁たっぷりに描いて大衆的な人気を博したキーン夫妻のスキャンダル、その実話を素材にしている。口下手、社交下手、絵画をものするのみの単機能的な妻マーガレットは、絵画制作に集中するが、理論的には素朴で、天才肌ではない。むしろ天才肌は夫ウォルターのほうだ。商機をつかむのに長け、モチーフを俗っぽく語ることでTV受けしてまでしてしまうスポークスマン。虚言癖のある男だが、その虚言がスピーディに輪転機のように回転する。
夫ウォルターは、商業的策略から、マーガレットの描いた絵画を自分が作者と偽った。女性画家が文化的に軽視されがちなこと、流暢に自己神話を語る個性が歓迎されるポピュリズムの時代を睨んだことなどがその要因だ(最初は周囲からの「作者」のとりちがえという、偶然が作用したのだが)。
自分の描いた絵画に、自分の子供のように愛着していたマーガレットは、この「切り離し」の暴力に抗議するものの、夫の巧言にくるみこまれてしまう。マーガレットは世間知という意味では素朴、彼女こそ旧弊な性差社会に幽閉された存在だった。この土台があって、「ゴースト・ペインター・スキャンダル」の「内包」が起こる。しかもそれが夫婦の「物語」と分離できないのだから、ことは佐村河内スキャンダル、あるいは現在放映中のドラマ『ゴーストライター』とは微妙に位相を異にする。
キーンと署名のある「ビッグ・アイズ」シリーズをまずは吟味しよう。映画は技術を結集し、それらを理想的かつ幻惑的に召喚している。たしかに巨きく描かれた人物の眼は、なにかを訴えかける哀愁をわかりやすくまとっている。婦女子ごのみのイラストレーション(的絵画)――そのように把握すれば、日本では竹久夢二や高畠華宵のような挿絵画家の系譜につうずるものがあるし、透明な悲哀の反復がポップ化されているという意味ではマリー・ローランサンをもおもわせる。いずれにせよアカデミックな絵画評価が予定する階級制のなかでは、下層に属する。俗眼にこそ資するものだという評価は、それじたい正当だろう。
ところが時代はウォーホルやリキテンスタインの活躍するポップアートの時代だった。悲哀の直截性、複製親和性による低廉化、反復への寛容、中流以下の生活者による絵画の家具化への欲望――それらに過不足なく応える「ビッグ・アイズ」シリーズは、いわば大衆層の無限の「分有」により、それじたいの効力を発揮する。さらに時代がくだれば、描法と主題の「キッチュ」が積極的価値を帯びるだろう。いまでは「ビッグ・アイズ」シリーズは、奈良美智の創作物と径庭のない隣接域に置き換えることさえできる。つまり、「ビッグ・アイズ」シリーズそのものが寓喩的な顕れをもちながら、その生成においては換喩的な進展をもった点が確認できるのだった。
キーン夫妻の実像に迫る名目の『ビッグ・アイズ』で作用しているのは、じつは寓喩と換喩とが織りなす葛藤だろう。寓喩的存在は閉じるが、換喩的存在は照応する。やがてウォルターの巧言的確約と励起によって、娘を手放す危機を迎えていたマーガレットが感動に至り、ふたりが結婚することになる。ふたりが最初に出会ったのが、サンフランシスコのノースビーチで繰り広げられている素人画家・日曜画家たちの街頭マーケットだった。凡庸なパリの街頭風景画を売るキーンにたいし、隣り合うマーガレットが異質さで人目を引く「ビッグ・アイズ」の子どもの肖像画を売っている。似顔絵サーヴィスもある。アカデミックな絵画的素養はないが、不思議な勘と商才をもつウォルターが接触してゆく。このときに「分有」もしくは「照応」という換喩的な展開が生じる。
自分の絵を安売りするマーガレットに、親切な忠告をするウォルター。そこへ女の子がやってくる。セールストークの模範をみせようと、その女の子に、このひとにファンタスティックな似顔絵を描いてもらうといい、とウォルターは身軽な物言いで薦める。女の子は怪訝な表情をする。だって並べられてある絵はすべてわたしの似顔絵よ、そう語り、出現した童女がマーガレットの実娘だったとウォルターが知る。ウォルターは笑い話にしてしまうが、じつは描かれた絵画と、現れた実在に「照応」があることを感知できなかった。ウォルターの深刻な能力欠如が問わず語りされているのだ。ところが映画的な問題はこれだけではなかった。
マーガレットの娘ジェーンを演じた子役は、眠たいまなざし、顔の中心部に欠落感のあるファニーフェイスの童女で、じつは「ビッグ・アイズ」の絵には似ておらず、「モデル」としての合致感に欠ける。「ビッグ・アイズ」の子どもに似ているのは、碧眼が印象的なマーガレット役、エイミー・アダムスのもつ、大人になりきれない生の消極性のほうなのだった。「ビッグ・アイズ」シリーズではマーガレットの自画像性が「分散」されている。
同時にそれがティム・バートン映画のそれまでの文脈にも置かれる。眼の巨きなキャラクター、あるいは「シザーハンズ」に代表される悲哀にみちた存在論的な異端者の系譜が、「ビッグ・アイズ」化されたこの映画の「表象」と照応するのだ(それは現在のプリクラ写真の、眼の少女マンガ的な巨大化ギミックとも連絡する)。眼は過剰な抒情化という受難を迎えている。
エイミー・アダムスについては碧眼のみならず、寓喩的な存在感も強調されている。マーガレットの絵画は顔の正面性を手放さないが、映画でのアダムスの横顔の描出では、鼻梁のえがく曲線が印象づけられる。ホイップクリームをつまんだような尖りは、ピノキオの鼻の人形性をもつのだ。それが男女観の旧弊から脱しきれなかった彼女の「ノラ」的限界をいわば抒情化させていた。
夫ウォルターに扮したのは、『イングロリアス・バスターズ』で冷厳なナチス将校を演り、世界的な男優に成長したクリストフ・ヴァルツ。殺害までほのめかして、代作事実の暴露を抑え、画を多方面に売り、表舞台に立ち、蓄財をかさねてゆく彼は、マーガレット=エイミー・アダムスの緩慢な、それゆえ実感をともなう生のうごきにたいし、いわばハイテンションで高速の舞踏をつづけるカンフル剤的存在に映る。「悪の凡庸」の典型ともいえる彼は、画学生時代を述懐しながら局面ごとに基礎的な絵画知識のないことをつたえてしまうし、妻への巧言と脅迫の、得体のしれぬ「同時性」も現代的な速度でゆれつづける。ひと刷毛で造形され、あとは「内包」の問題を惹起するエイミー・アダムスの存在的な寓喩性と好対照だ。
俗悪の横暴からの母娘の解放の物語なのに、彼女たちを金銭で支配した、軽薄で虚言もいとわないこのヴァルツの役柄が「憎めない」のが作品の最終的な「味」のひとつだろう。だからエンドロールで夫ウォルターの後日譚的な事実が端的に表明されたときにふしぎな感慨も生ずる。
俗悪が「ちから」だという見解が作品にはたしかにある。「ビッグ・アイズ」シリーズに揶揄的な経営者のいる画廊の真正面に、キーン画廊が建つ。連日超満員。しかし売上はゼロ。それと電柱に貼られた画廊案内のチラシが盗まれる。それでウォルターは、「ビッグ・アイズ」シリーズの複製を売ることを思い立つ。廉価なので爆発的に売れる。大衆社会の到来は、複製の成立により礼拝価値をうしなった(擬似)美術品が流通することだ。これは階級の再編成にほかならない。ベンヤミンの分析どおりだが、ティム・バートンの視野はそこにとどまらないだろう。流通の拡大が「ちから」である一方、悲哀も蔓延すると示唆されているのではないか。複製の中心領域がもっとも悲哀化するのだ。映画作者の実感だろう。
象徴的なのは、複製性によって薄くなった作品を、そのまま美術史をくつがえすための名刺としたウォーホルの取り扱いだろう。ウォーホルの「ビッグ・アイズ」シリーズへの賛辞はこの映画のエピグラフのように引例されるし、ウォルターの、ウォーホル「キャンベル缶」シリーズへの俗悪な罵倒もある。文化的な寵児だったウォーホルの、異端的、異形者的な存在の悲哀を、たぶんティム・バートンは自身にかさねているはずだ。そこでも「分有」が起こっている。
画面の逼塞は、この映画では連打的だ。作品舞台となるサンフランシスコの坂は画面の真正面にとりこまれ、空の大部分を隠すが、トリュフォー映画のように空が完全消去されることはない。比較的往年のようすをたたえているその街路は実景をとりこまれているが、そこではCGによる部分消去と合成(これは寓喩に属すると同時に換喩にも属する)も駆使されているだろう。
問題はマーガレットの仕事部屋。最初にウォルターとマーガレット/ジェーン母娘が暮らしだした家、やがて一家が巨万の富を叩きだし移り住んだアーティスティックな豪邸、それぞれに仕事部屋=閉鎖されたアトリエがある。社交と営業に励む夫を尻目に、マーガレット=エイミー・アダムスは一日16時間の長丁場、アトリエに引きこもって、「ビッグ・アイズ」シリーズの量産に努めている。窓は開かれない。テレピン油の臭気、その麻酔のなかで描かれた「ビッグ・アイズ」シリーズはサイケデリック・アートのもつ麻薬性とも通底する。
このような文化史的な指摘は作品の随処にある。結果的にはパブ経営者と殴り合いの喧嘩になったことがウォルターの知名度をあげたのだが、そのパブ「ハングリー1」はジャズ演奏がなされながら、当時のアメリカンカルチャー全般に発信力を誇ったビートニクたちの巣窟だった。
巣窟――「巣」の寓喩。密閉状のアトリエで絵画制作に励むマーガレットはいわば「繭籠り」を体現する。おのれの絹糸でおのれを縛られるのだ。この「繭籠り」がティム・バートン的な主題であるのは無論だが、空間的にはならべられた画が、一種の蚕棚を形成することになる。むろん「ビッグ・アイズ」シリーズなのだが、相互に同質的なものが照応する結果、「無」が印象されてくる。これは換喩的な「部分」がひっきょう無だとしたアガンベンの見解と合致する。
商業的には成功していた夫婦の「協働」に水が差された。64年のニューヨーク万博に、ウォルターの機転でユニセフのパビリオンに納品された絵画はいわば「ビッグ・アイズ」シリーズの集大成となるべきものだった。「ビッグ・アイズ」の子どもたちが大量に集合している。それで絵画空間じたいが蚕棚のように重層化する。これは、スポークスマンとしてのウォルターが、「なぜ巨きな眼の子どもたちばかりをモチーフにするのか」の問いに、「公的に」用意した思いつきの虚言、「第二次世界大戦後の、飢えにあえぐ鉄条網の向こうの戦災孤児たちから生涯の衝撃をうけたこと」に呼応する画題だったろう。ところが「ビッグ・アイズ」シリーズは前言したように、マーガレットの自画像性の無限分岐だった。だからそれは「ひとりのすがた」として描かれるのが正しかったのだ。
「ビッグ・アイズ」シリーズは俗悪だという評価が、とどめを刺す。刺したのは、ニューヨークタイムズの評論家で、なんとテレンス・スタンプが演じていた。スタンプとヴァルツのパーティを舞台にした悶着では、スタンプの剣豪のような挙止がみごとだ。
鍵穴から火のついたマッチをアトリエ内に投げ込んでくる夫ウォルターの狂気に恐怖したマーガレット/ジェーンの母娘(ジェーンは成長して二代目の子役にかわっている)は、またもやクルマで邸から逃亡した。この「二代目」「またもや」で、映画『ビッグ・アイズ』が「数値」にかかわる知見を「内包」していると知れてくる。もともと数秘学に親炙していたマーガレットは娘とともに、ウォルターとの新婚旅行で魅了されたハワイへ逃亡。そこでエホバの証人の信者と接触して、性格に積極性をくわえてゆく。ハワイのローカルラジオ番組で、「ビッグ・アイズ」シリーズの真の作者が、前夫ではなくその妻だった自分だったと公式に表明して、娘の快哉を浴びたのだった。
「数値」の問題――映画『ビッグ・アイズ』では、「多」は「ビッグ・アイズ」シリーズがそうであるように、「ちから」であり、同時に「無」だった。いっぽう「1」は治癒されない。そして「2」が希望への階梯を形成することになる。もともと「2」だったウォルター/マーガレットは代作と署名の虚偽性により「2」を破綻させた。それでウォルターは治癒不能の「1」へと堕ちる。かわりに「2」の紐帯が、マーガレット/ジェーンのあいだに形成されることになる。
作品は、母娘問題を社会学的に孕んでいる。偏奇な父ウォルターにたいし、母娘が世間から遊離した状態のまま共闘するというのなら「母娘密着」が起こるだろう。けれどもそうはならない。順序立てて振り返ると、夫名義の画を制作しているのは母マーガレットだという娘の疑念を、夫婦そろってそれは幼年時の記憶ちがいだと訂正する。結果、娘ジェーンの全体は捏造された記憶のなかに繭籠りされることになった。画の代作行為は娘にたいしても秘密裡にたもたれ、アトリエもたえず閉鎖される。そのアトリエの「場所」「真実性」の獲得が親子間闘争の課題となる。この闘争に娘はいつの間にか明晰さで勝利し、それで母娘の「2」が形成されていったのだった。
やっと配偶者たちの居所を突きとめたウォルターによって、「画の真の作者が自分」とする妻の発言を狂気の沙汰だとする訴訟が起こる。係争は実際に傍聴人の眼前で、夫婦ともどもに「ビッグ・アイズ」の画を描かせるクライマックスを迎える。そのまえ、弁護士が退場してしまったウォルターが、その弁護士役を自分がおこなうと強弁、証人(自分)と弁護士の「2」を交互に、アクロバティックな高速で演じ分ける仕儀となる。「1」である彼が、偽りの「2」を演じるのだが、クリストフ・ヴァルツのアクのつよい演技はその悪達者ぶりから、たしかに可笑的な悲哀感をつたえてくる。娘と「2」となることで自分自身を確固たる「1」に編成しなおしたマーガレットの、「2」から「1」への数値のズレ=換喩性なら別次元だ。対するウォルターは自身を寓喩的存在へと完成させた。つまりここにも換喩と寓喩の葛藤があった。
数値の幻惑は、じつは「ビッグ・アイズ」が実在人物上に転用されてゆく伸長(CG)にきわまる。マーガレットが巨大スーパーで買い物をする場面。自分の「ビッグ・アイズ」シリーズが複製され大量に売られているのに気づく。眼の氾濫。ところがそれは、他の買い物客へも飛び火して、それら顔のすべてに巨きな眼のかたどられている幻想場面となる。しかもただの幻想ではない。そこでは巨きな眼による悲哀の「分有」が普遍的な問題だと知れてくるのだ。このときの画柄は、仮面のならび充満するアンソール絵画のようにもなる。
一方でマーガレットが、自分の鏡像を視て、そのなかの像が巨きな眼にかわってしまったのを是正できない恐怖場面もある。そこではたとえば真の自画像領域は自分の涙眼によって「視えない」といった、デリダ『盲者の記憶』の問題系との接触が起こる。いずれにせよ「巨眼化」は「多」にも「1」にも適用され、結果、「多」と「1」の通底が起こる。これを「寓喩」「換喩」のどちらかに振り分けるのは至難というべきだろう。
マーガレットが「ビッグ・アイズ」シリーズから離れ、それを変奏したような(しかもモジリアニの影響もうけた)あらたな自画像シリーズを開始するくだり(これも「2」の主題)や、ウォルターの往年のパリの街路風景画の署名の下からべつの署名が現れるくだり(これまた「開陳される2」の主題)もあるが、それぞれの帰趨はどうか実地にご確認を。
最後に強調したいのは、上映時間だ。この傑作は「わずか」106分で終了する。寓喩性の映画なら尺も長いはずで、だから映画そのものを縮減できたのには、換喩性による意味形成の効率化がかかわっているだろう。
2月18日、札幌シネマ・フロンティアにて鑑賞。